平致光
時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
官位 | 従五位下・右兵衛尉、大宰権大監 |
氏族 | 桓武平氏良兼流(坂東平氏) |
父母 | 父:平公雅 |
兄弟 | 致秋、致成、致頼、致光、致遠、時通 [1]、平忠常正室、有道維広室 |
平 致光(たいら の むねみつ、生没年不詳)は、平安時代中期の武将。平公雅の四男。
経歴
[編集]『日本紀略』寛和2年(986年)6月19日条によれば、「滝口武者平致光」が野宮にいた斎宮・済子女王と密通事件を起こしたという。
「江見左織氏所蔵文書」には、正暦4年(993年)に従五位下・大宰権大監であったという文書が残っている[1]。
長徳2年(996年)2月5日の長徳の変の際には、致光とその兄弟が伊周の郎党として、検非違使に家宅に踏み込まれ逃亡している[2][3]。
藤原隆家に従軍して、刀伊の入寇で活躍した平致行と同一人物という説が存在する[4]。
『今昔物語』には、壱岐守宗行の郎等が主人の宗行の怒りにふれ、新羅に逃亡し、虎を退治したが、妻子恋しさのあまり筑紫に帰り、宗行は勘当した郎等の「いみじき」行為により、これを許したという話があるが、ここに登場する「壱岐守宗行」が、平致行と同一人物であるとする説が存在する。「宗行」と「致行」の近似性を指摘する立場もある[5]。