後藤光蔵
後藤 光蔵 | |
---|---|
生誕 | 1896年1月4日 日本 大分県 |
死没 | 1986年12月12日(90歳没) |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1917年 - 1946年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
後藤 光蔵(ごとう みつぞう、1896年(明治29年)1月4日 - 1986年(昭和61年)12月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]大分県出身。後藤友六の二男として生れる。
熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月25日、歩兵少尉に任官し歩兵第1聯隊附となる。
1921年(大正10年)4月1日に任歩兵中尉。
1926年(大正15年)8月6日に任歩兵大尉。同年12月、陸軍大学校(38期)を首席で卒業し、歩兵第1連隊中隊長に補職された。
その後、参謀本部付勤務、参謀本部員、陸軍省軍務局(ドイツ駐在)、1931年(昭和6年)8月1日に任歩兵少佐。
1932年(昭和7年)7月にドイツ大使館付武官補佐官、1933年(昭和8年)11月に歩兵第3聯隊大隊長、1934年(昭和9年)12月から1938年(昭和13年)7月まで侍従武官を務めた。
1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に昇進し第1軍参謀に就任、日中戦争に出征。
1939年(昭和14年)8月1日に歩兵第1聯隊長、教育総監部第1課長などを経て、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級し教育総監部総務部長に就任。
1944年(昭和19年)4月、第2方面軍参謀副長に就任し、防衛総司令部総参謀副長となり、1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に進んだ。同年4月、第1総軍参謀副長となった。宮城事件により殺害された森赳中将の後任として近衛第1師団長に就任し終戦処理を実行した。
近衛第1師団の復員を指揮した後、1945年9月に初代禁衛府長官に就任し、1946年(昭和21年)1月まで在任した。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。
脚注
[編集]- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」20頁。