徳仁

徳仁
2023年(令和5年)6月19日撮影
インドネシアボゴール宮殿にて

在位期間
2019年5月1日 - 在位中
令和元年5月1日 - 在位中
即位礼 即位礼正殿の儀
2019年(令和元年)10月22日
皇居 宮殿
大嘗祭 大嘗宮の儀
2019年(令和元年)11月14日15日
於 皇居 東御苑大嘗宮
元号 令和: 2019年5月1日 -
内閣総理大臣
先代 明仁

誕生 1960年昭和35年)2月23日16時15分(64歳)
日本の旗 日本 東京都千代田区千代田
皇居宮内庁病院
徳仁なるひと
1960年(昭和35年)2月29日命名
称号 浩宮ひろのみや
あずさ
元服 1980年(昭和55年)2月23日
父親 明仁(第125代天皇・上皇
母親 美智子上皇后
皇后 雅子
(旧姓名:小和田 雅子)
1993年平成5年)6月9日 結婚
子女 愛子内親王
皇嗣 秋篠宮文仁親王
皇居
栄典
学歴 学習院大学大学院人文科学研究科
博士前期課程修了
親署 徳仁の親署
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称号:天皇
敬称 陛下
His Majesty the Emperor[1]
His Imperial Majesty(H.I.M.)
皇室






徳仁(なるひと、1960年昭和35年〉2月23日 - )は、日本の第126代天皇(在位: 2019年令和元年〉5月1日 - )。御称号浩宮ひろのみやお印あずさ敬称陛下[2][注釈 1]勲等大勲位[5]

明仁(第125代天皇・上皇)と美智子上皇后)の第1皇男子。皇后は、雅子(旧姓名:小和田雅子)。皇女子に愛子内親王(第1子・第1皇女子)、皇弟に秋篠宮文仁親王皇嗣)、皇妹に黒田清子(清子内親王)がいる。小室眞子佳子内親王は姪、悠仁親王は甥にあたる。

第二次世界大戦後、かつ日本国憲法及び現皇室典範下の生まれで即位した最初の天皇。元号法並びに「元号を改める政令 (平成三十一年政令第百四十三号)」に基づいて、即位の日に「令和(れいわ)」と改元された。また、学位を所持し、海外留学の経験を有する。

概要

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1960年昭和35年)2月23日16時15分[6]皇太子明仁親王同妃美智子(いずれも当時)の第1皇男子(2男1女・3人の子女の内、第1子)として、東京都千代田区千代田皇居宮内庁病院にて誕生する。御称号は「浩宮」(ひろのみや)、は「徳仁」(なるひと)と命名された。誕生時から即位までの身位を付した呼称は、「徳仁親王」(なるひと しんのう)、敬称は「殿下」(でんか)。

1989年(昭和64年)1月7日の自身の名付け親でもあった祖父・昭和天皇崩御により、父・皇太子明仁親王(当時)が皇位を継承した。これに伴い皇太子となり、自身が31歳の誕生日を迎えた1991年(平成3年)2月23日には立太子の礼が執り行われた。皇太子となって以降、即位までは、政府の用いる正式表記では、「皇太子」および敬称を冠し「皇太子徳仁親王殿下」(こうたいしなるひとしんのうでんか)、宮内庁を含む日本国政府機関では単に「皇太子殿下」(こうたいしでんか)の呼称が用いられた。

1993年(平成5年)6月9日に小和田雅子(当時)と結婚。成婚8年後の2001年(平成13年)12月1日に第1皇女子の愛子内親王が誕生した。

即位以前には、1987年(昭和62年)より2016年(平成28年)まで22回、自身は皇太子として海外訪問の期間または病気療養の期間、父から委任を受け国事行為臨時代行を務めた。2016年(平成28年)1月28日には、平成時代の国事行為臨時代行として初の閣僚に対する認証式を行った[7]

2019年(平成31年)4月30日午後12時の父帝の退位[8]によって、2019年(令和元年)5月1日午前0時[注釈 2]に皇位を継承し、日本国憲法および天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づき、59歳で第126代天皇に即位する[9]明仁から徳仁への皇位継承)。

皇室男子として珍しく、歴史学(主に交通史、流通史)を専門とする。またヴィオラ演奏、登山ジョギングを趣味とし、国民にもその姿を度々披露している[10][11]

来歴

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父:明仁 母:美智子
父:明仁
母:美智子

皇孫時代

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1960年(昭和35年)2月23日16時15分、皇太子明仁親王と同妃美智子(いずれも当時)の第一皇男子(2男1女のうち第1子)として、東京都千代田区千代田皇居宮内庁病院にて誕生する。身長47センチメートル、体重2,540グラム[6]

旧皇族や旧華族階級でない、いわゆる平民家庭出身の母親であった皇太子妃美智子の意向に沿い、懐妊に際しては母子手帳が発行され、皇居宮殿内の御産殿での出産をせず一般家庭と同様に病院で行うなど、それまでの皇室の慣例によらない、戦後初の内廷皇族の親王(皇孫、皇太子の長男としてほぼ確実に将来において天皇に即位することが確定している男性皇族)誕生は、広く国民に注目された。同年2月29日に命名の儀において祖父の昭和天皇が御名を「徳仁(なるひと)」称号を「浩宮(ひろのみや)」と命名した[注釈 3]。「浩宮」の称号は四書五経のうちの『中庸』第32章にある「々たる天」、「徳仁」の名は同じく「聡明聖知にして天に達する者」を典拠とする。

肫肫たる其の仁、淵淵たる其の淵、浩たる其の天。苟くも固に聡明聖知にして天に達する者ならざれば、其れ孰か能くこれを知らん。

—『中庸』第32章

それまでの傳育官制度を事実上廃止し、両親である皇太子同妃による育児・子育ても、国民の関心の的となった。中でも、生後7か月の徳仁親王から離れて皇太子同妃が14日間の公務訪米の際に、皇太子妃美智子が世話係へ書き置いた育児メモ「ナルちゃん憲法」は、子供を預けて勤労する一般家庭の母親たちの育児指針としても共感を呼んだ。

1964年(昭和39年)4月13日、学習院幼稚園に入園する。同年11月1日には着袴の儀を行う。両親である皇太子同妃は、専任の養育係を置かずに子育てを行った。ただし、東宮侍従濱尾実が、徳仁親王が1歳3か月の時から初等科5年生まで専任の養育係に準ずる存在として養育および教育に貢献している。徳仁親王は濱尾を「オーちゃん」と呼び、濱尾家の子ども達とも親しく遊んでいた[12]。両親の下で、弟・文仁親王、妹・清子内親王とともに育つ徳仁親王の様子は、報道を通じてしばしば公表され、一般国民の感覚に近寄った戦後の幸福な家庭像を描くとともに、新しい皇室像の形成にも大きく寄与した。

1966年(昭和41年)4月8日、学習院初等科に入学する。この頃から稲田悦子参与の指導でフィギュアスケートを始める(大学生の時にスピードスケートに転向)。学習院高等科時代は、正規の授業のほか、「『将来の天皇』としての素養を身につけさせる」という目的の下で、東宮御所におけるご進講の形で「歴代天皇の御事跡」や『古事記』『日本書紀』といった皇室史に関わる日本神話、『万葉集』『平家物語』など日本の古典文学から比較神話学文化史文化人類学時事問題などを幅広く学習した。「帝王学」の一環と考えられる[13]学習院大学では音楽部に所属しヴィオラを担当した。在学中の1980年(昭和55年)2月23日、満20歳で成年式を執り行った。

1982年(昭和57年)3月に学習院大学文学部史学科を卒業した(文学士)。その後、同大学大学院人文科学研究科博士前期課程に進学。それまでの多くの皇族が、生物学を中心とした自然科学を専攻したのに対して、徳仁親王は史学中世の交通史・流通史という人文科学社会科学に近い分野を専攻した。

1983年(昭和58年)から1985年(昭和60年)にかけて、英国オックスフォード大学マートン・カレッジに留学して、テムズ川水運史について研究[注釈 4]。大学院時代のスーパーバイザー(正指導教授)はピーター・マサイアス英語版、インカレッジ・チューター(副指導教授)はロジャー・ハイフィールド英語版であった[14]

イギリス留学を終えた後に1985年10月から21日間のアメリカ旅行をし、ロナルド・レーガンアメリカ大統領やハビエル・ペレス・デ・クエヤル国連事務総長と面会した。

1988年(昭和63年)には、学習院大学大学院人文科学研究科の博士前期課程修了した(文学修士)。この間、1987年(昭和62年)10月3日から10月10日には昭和天皇の病気療養と父・皇太子明仁親王の外国訪問が重なり、初めて国事行為臨時代行に就いた。

昭和時代の末より、徳仁親王の伴侶たる親王妃候補について様々な憶測が報道されるようになった。1986年(昭和61年)10月18日、来日中のスペイン王女エレナ・デ・ボルボン・イ・デ・グレシアの歓迎パーティーに親臨した際、小和田雅子と知り合う。

皇太子時代

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1989年(昭和64年)1月7日、祖父・昭和天皇崩御を受け、父の皇太子明仁親王が第125代天皇に即位した。これに伴い、皇位継承順位が第1位となり、徳仁親王は皇太子(皇嗣たる皇子/皇男子、法定推定相続人)となった。また、それまで両親および弟妹の家族と同居していたがこれを機に別居、独立した。

父帝即位の礼などを経て、1991年(平成3年)2月23日、満31歳となった日に立太子の礼が執り行われた。また同日、皇太子の印とされる「壺切御剣」を父帝から親授された。

1993年(平成5年)1月19日、皇室会議において婚姻の相手に小和田雅子(当時:外務省北米局北米二課職員)を内定。同年6月9日に結婚の儀が執り行われた。

小和田雅子との成婚までの経緯

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皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀

1986年(昭和61年)10月18日、東宮御所で催されたスペイン国王フアン・カルロス1世の長女・エレナ王女歓迎の茶会に、外務省条約局長だった小和田恆とともに招かれた、恆の長女で外務公務員I種試験に合格して間もない小和田雅子と初対面を果たす。1987年(昭和62年)4月25日には、高円宮憲仁親王同妃久子が高円宮邸に徳仁親王と小和田雅子を招き、親交を深めるきっかけを作った[15]

こうして親王妃候補の一人となった雅子の母方の祖父・江頭豊は銀行員であったが、四大公害病の筆頭である水俣病を引き起こした日本窒素株式会社のメインバンクから、水俣病患者の補償部門として新設されたチッソに派遣され、その後社長に就任したこと、それに伴うメディアスクラムの被害、また雅子自身の外交官の仕事への熱心さから、一度は親王妃候補から外れた。しかし、この間も徳仁親王の念頭には雅子の存在があり、他の妃候補が同様のメディアスクラムの被害を受けるなどして次々と辞退したことと徳仁親王の希望もあり他の親王妃候補と平行して話が進んだ。宮内庁内の反対の流れを大きく変えたのは元最高裁判所判事であり当時宮内庁参事であった団藤重光の「江頭氏は再建のため日本興業銀行からチッソに入った。再建できなければ被害者への補償も不可能になった。水俣病の発生について法的責任はない」との見解であった。前宮内庁長官の富田朝彦は後に「和解案を裁判所が提出するとか、前向きの形といいますか、取り組みといったものが出てまいりまして、それでいまの藤森昭一長官ともその情勢をいろいろと話し合って、もうここまでくればいつまでも見守るという態勢ではないだろうと。そろそろいい時期にきたかなと、こういうふうになってきたのが大体の経緯です」と述べている[16]

また、天皇明仁と皇后美智子(いずれも当時)は「『皇太子が選んだ相手との話を進めてもらいたい』との大御心を宮内庁に伝えた」とされる[17]。小和田雅子が英国留学から帰国した後に、藤森昭一宮内庁長官の依頼を受けた[18]、元外務事務次官柳谷謙介が宮内庁と小和田家の仲介役を務め、1992年(平成4年)8月16日、柳谷邸にて徳仁親王と雅子が再会し、交際も再開した。同年10月3日に千葉県市川市宮内庁新浜鴨場でのデートで徳仁親王が求婚した。小和田家側は辞退したが、徳仁親王は雅子に「天皇皇后両陛下も『温かくお迎えする』とおっしゃって下さっている[19]」旨を伝えた。そして12月12日に東宮仮御所において雅子は婚約の受諾を伝えた。12月25日に東宮仮御所で、徳仁親王は雅子を天皇と皇后に紹介し歓談した。

翌1993年(平成5年)1月6日午後8時45分、報道協定が解除されたため、テレビ各局は通常番組を中断して小和田雅子が皇太子妃に内定したことを報道した。同年1月19日、皇室会議(議長:宮澤喜一内閣総理大臣宮澤改造内閣)において「皇太子徳仁親王と小和田雅子の婚姻」が全員一致で可決され、同日2人による記者会見が行われた。翌日からは多数の企業が祝賀広告を新聞に掲載するなど国民は祝賀ムードに包まれた。同年4月12日の納采の儀(婚約)を経て、同年6月9日に結婚の儀が執り行われた。その他の有力候補には父帝の学友で旧華族明石元紹の長女がおり、1988年(昭和63年)秋の秋篠宮文仁親王のダブル婚約の動きがあったが明石家の辞退でこの話は立ち消えた。その後、最も有力といわれた妃の候補には旧皇族久邇邦昭の長女(香淳皇后の大姪)がおり、数回見合いをして電話やファックスのやり取りを重ね、前年には旧皇族の久邇家も当人も了承し婚約内定寸前まで話が進んだが、皇太子自身が小和田雅子への思いを捨てきれず破談となった[20]

同日、午前8時30分から2時間55分にわたってNHK(日本放送協会)が中継放送した「皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀」の平均視聴率は30.6%(ビデオリサーチ関東地区調べ)を記録した。そして成婚パレードの沿道には約19万人が集まり、そのテレビ中継の最高視聴率は79.9%を記録するなど、盛大な祝福を受けた[21]。また当日は、「皇太子徳仁親王の結婚の儀の行われる日を休日とする法律」が制定されて休日となった。また各地で神輿山車が繰り出され、提灯行列や花火の打ち上げや餅つき、国営公園の無料開放などが行われた。

皇太子妃雅子との成婚以降

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成婚8年後の2001年(平成13年)12月1日、妃雅子との間に第1子で第1皇女の愛子内親王が誕生した。

皇太子となってからは、外国を度々訪問し、皇室外交の進展を図っている。また、公務の傍ら1991年(平成3年)9月には、イギリスの名門の一つであるオックスフォード大学から名誉法学博士号を授与されている。そして1992年(平成4年)4月からは学習院大学史料館客員研究員の委嘱を受け、日本中世史の研究を続けている。学習院女子大学国際文化交流学部の授業では、「北米文化の源流・イギリスの社会と文化」や「オックスフォードにおける学生生活」について講義を行い、名誉総裁として臨席した世界水フォーラムの開会式では、「京都と地方を結ぶ水の道」や「江戸と水運」と題した講演を行なっている。

2004年(平成16年)5月10日、欧州3か国歴訪を前にした会見内で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言した(いわゆる「人格否定発言」)。同発言は、皇太子一家と皇室・宮内庁の間に不和があることを浮き彫りにし、大きな反響を呼んだ。同年7月に妃雅子が療養している事実が正式に発表され、以後徳仁親王は単独で公務・祭祀を行うことがほとんどとなった。

2007年(平成19年)3月27日、定期健康診断十二指腸ポリープが発見された。同年5月には良性と診断されたが、同年6月6日に十二指腸ポリープの内視鏡による切除手術を東京大学医学部附属病院(東京都文京区)で受けた。同年11月1日、国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁に就任。日本の皇族が国連などの常設の国際機関の役職に就任するのは初である[22]

2009年(平成21年)11月8日から11月20日まで来日した彭麗媛が団長を務める中国人民解放軍総政治部の歌舞団が東京都北海道札幌市で中国歌劇『木蘭詩編』を皇太子の母校である学習院大学で公演した際に皇太子は私的に会場に行啓し、2階VIP席で彭麗媛と隣り合わせの席で台覧して言葉を交わしており、彭麗媛の夫の習近平天皇特例会見と同様に「中華人民共和国による皇室の政治的利用」と批判されることになった[23][24]

2013年(平成25年)3月6日、米国ニューヨーク国際連合本部で開催された「水と災害に関する特別会合」において英語で基調講演を行った。同会合は、東日本大震災東北地方太平洋沖地震)など世界的な水災害の増加を受け国連で初めて開催された会合である[25]

2016年(平成28年)1月28日、父帝・明仁皇后美智子(当時)とともに第二次世界大戦戦没者慰霊を目的としたフィリピン訪問のために不在であったことから、第3次安倍第1次改造内閣経済再生経済財政担当大臣甘利明から石原伸晃へ交代したことに伴う閣僚の認証官認証式を国事行為臨時代行の形で執り行った[26]

2017年(平成29年)6月16日、天皇の退位等に関する皇室典範特例法公布、同年12月1日開催の皇室会議(議長:安倍晋三内閣総理大臣)及び12月8日開催の第4次安倍内閣の定例閣議で同法施行期日を規定する政令が閣議決定され、明仁が2019年4月30日を以って退位して上皇となり、皇太子徳仁親王が2019年5月1日に、第126代天皇に即位するという皇位継承の日程が確定された。

天皇時代

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2019年(令和元年)8月30日、明治記念館にて

2019年(平成31年)4月30日午後12時、天皇の退位等に関する皇室典範特例法に従って第125代天皇明仁が退位し、2019年(令和元年)5月1日午前0時、皇太子徳仁親王が皇位を継承し第126代天皇に即位した。皇太子妃雅子は皇后となった。これに伴い、元号が「平成」から「令和」に改められた。同日、父の先帝・明仁上皇となり、母の皇后美智子は上皇后となった[27]

仁孝天皇以来およそ202年ぶり、かつ、一世一元の制となった明治以降初めて、先帝からの譲位に伴い即位した天皇となった。また、59歳(数え60歳)での即位は、光仁天皇の61歳(数え62歳)に次ぐ、歴代で2番目となる高齢での即位である。

天皇の即位の日及び即位礼正殿の儀の行われる日を休日とする法律により、2019年(令和元年)5月1日は「天皇の即位の日」、同年10月22日は「即位礼正殿の儀が行われる日」とされ、共に同年限りで祝日扱いの休日となった[28]

なお、皇太子徳仁親王の天皇即位に伴い、「皇太子」は、1926年(大正15年/昭和元年)12月25日の大正天皇崩御による昭和天皇の即位から1933年(昭和8年)12月23日の父の上皇(継宮明仁親王)の誕生するまで以来86年ぶりで、現行の皇室典範の下では初めて「空位」となった[注釈 5]。代わって、皇弟・秋篠宮文仁親王が皇嗣(皇位継承順位第1位)となった。

即位の日、天皇は赤坂御所から皇居宮殿に向かい、即位の礼最初の儀式である「剣璽等承継の儀」に臨んだ。これには、皇位継承資格を有する成年の男性皇族、皇弟の秋篠宮文仁親王と皇叔父の常陸宮正仁親王、その他三権の長(内閣総理大臣安倍晋三衆議院議長大島理森参議院議長伊達忠一最高裁判所長官大谷直人)や閣僚らが参列。その後に、皇后雅子をはじめ、皇嗣妃となった文仁親王妃紀子ら、成年の女性皇族らも参列に加わって行われた「即位後朝見の儀」において、天皇として初めて「おことば」を述べた。5月4日には新天皇の即位を奉祝する一般参賀が皇居で行われ、「おことば」を述べた[29]

5月9日、第198回国会(常会)衆議院は、即位に祝意を示す「賀詞」を全会一致で議決した[30][31]。5月15日、参議院も同様の「賀詞」を全会一致で決議し[32]日本共産党も、衆議院では条件付きで、参議院では異論なしに賛成した[33]

5月9日、離任する駐日中華人民共和国大使程永華と即位後初の外国賓客の引見を行い[34]、国際親善の公務を開始した[35]

5月10日、財務省は、天皇陛下御即位記念貨幣一万円金貨幣および五百円バイカラー・クラッド貨幣)の発行を発表した[36]

5月25日から28日の日程で、アメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプ及び夫人メラニア・トランプアメリカ合衆国のファーストレディ)が、令和時代初の国賓として訪日した[37]。天皇徳仁は5月1日の即位後初の国賓として接遇した。5月27日に、徳仁とドナルド・トランプ、雅子とメラニア・トランプが15分ほどの会見を行い、主に父帝の退位と自身の即位、日米の交流、26日の大統領夫妻の相撲観戦など日本文化の3つが話題になった。一方、雅子とメラニアとの間では、子供の教育やスポーツ、大統領夫人が取り組んでいる青少年育成活動に関することなどが話題に上り、外国滞在と外交官としての勤務経験を有する皇后雅子は、通訳を介さず会話した。会見では贈り物の「御贈進品」の交換も行われた。天皇徳仁・皇后雅子は大統領に濃い青色の円すい形の飾り鉢を、メラニア夫人へは金細工を施した飾り箱を、それぞれ贈呈した。大統領夫妻からは徳仁にはウェストバージニア州の楽器職人が1938年に製作したヴィオラ[38]、雅子には母校であるハーバード大学で伐採した樹木で創作されたペンが、それぞれ贈呈された。贈呈されたヴィオラについて、雅子が「陛下、今夜お弾きになられたら」と話すと、徳仁が笑顔を見せる場面もあった[39]。また同日に皇居宮殿で行われた、「アメリカ合衆国大統領閣下及び同令夫人のための宮中晩餐」にて「おことば」を述べた[29]

2019年(令和元年)10月22日、皇居宮殿正殿・松の間にて即位の礼の中心儀式である即位礼正殿の儀が執り行われた[40]

同年11月9日皇居前広場にて開催された「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」に際し、皇后雅子とともに二重橋に姿を見せ、「おことば」を述べた[41]

同年11月10日、皇居から赤坂御用地までオープンカーによるパレードを行う「祝賀御列の儀」が執り行われた[注釈 6]

同年11月14日及び15日に、一世一度の宮中祭祀である大嘗祭の中心儀式「大嘗宮の儀」を実施。

同年12月4日、天皇徳仁と皇后雅子は皇居宮中三殿賢所で、皇位継承に伴う一連の国事行為「即位の礼」と、一世一度の重要祭祀「大嘗祭」を終え、皇祖神の天照大神に感謝を込めて神楽を演奏する「賢所御神楽の儀」に臨んだ。同年5月から続いていた即位関連儀式の締めくくりとして行われ、皇嗣秋篠宮文仁親王同妃紀子をはじめとする皇族も参列した。儀式では神楽の演奏の前に、16時半頃、黄櫨染御袍に身を包んだ徳仁が賢所にて、三種の神器のうち剣璽(剣と勾玉)を捧げ持つ侍従らと共にゆっくりと回廊を進み、拝礼した。続いて、十二単の装束を着用した雅子も拝礼。参列の皇族も賢所の前で拝礼した。これに先立ち、天皇・皇后は同日午前、即位の礼と大嘗祭を終了したことを奉告する「親謁の儀」で宮中三殿に拝礼した。同年5月1日、天皇が皇位継承の証として三種の神器の一部を引き継ぐ「剣璽等承継の儀」から始まった一連の即位関連儀式はこれで全て終了した。

即位後の1年間で、両親から公務を引き継ぎ、皇后同伴での日本各地への行幸啓(式典等含む)をした。2019年(令和元年)は、「第70回全国植樹祭」(6月2日愛知県森林公園)、「地球科学・リモートセンシング国際シンポジウム2019開会式」(7月29日パシフィコ横浜)、「全国戦没者追悼式」(8月15日日本武道館)、「第39回全国豊かな海づくり大会」(9月8日秋田県立武道館)、「第34回国民文化祭・第19回全国障害者芸術・文化祭」(9月16日朱鷺メッセ)、「第74回国民体育大会」(9月28日笠松運動公園陸上競技場)、「第60回海外日系人大会記念式典」(10月1日憲政記念館)、「更生保護制度施行70周年記念全国大会」(10月7日東京国際フォーラム)、2020年(令和2年)は、「国立障害者リハビリテーションセンター及び国立職業リハビリテーションセンター創立40周年記念式典」(1月22日国立障害者リハビリテーションセンター)への臨席にて、「おことば」を述べた(「地球科学・リモートセンシング国際シンポジウム2019開会式」のみ、英語による)[29][42]

2019年(令和元年)12月26日、同年10月発生の令和元年東日本台風(台風19号)などの被災地を見舞うため、皇后同伴で宮城県福島県を日帰りで訪問した[43]。天皇・皇后の被災地訪問は同年5月の即位後、初の機会となった。10人が犠牲となった宮城県伊具郡丸森町にて、阿武隈川の支流が氾濫し、流木や土砂が残る地区を視察した。仮設住宅の集会所では被災者に声をかけ、災害対応に尽力した関係者もねぎらう。福島県本宮市では、決壊した支流の安達太良川堤防の復旧状況を視察した後、台風19号の発災後に避難所として使用されていた保健・福祉施設を訪問し、被災者を気遣う言葉をかけた[44]

2020年(令和2年)1月1日、即位後初の正月を迎え、重要な年始の宮中祭祀である四方拝歳旦祭の儀に臨む[45]。その後、皇后雅子とともに新年祝賀の儀に臨む[45]1月2日、退位後初めて公の場に姿を見せる両親の上皇・上皇后とともに新年一般参賀に臨む[45]1月3日元始祭の儀に臨む[45]1月14日講書始の儀、1月16日歌会始の儀に他の皇族らとともに臨む[45]

同年1月25日、皇后雅子と愛子内親王同伴で両国国技館(東京都墨田区)を訪問し、大相撲初場所14日目の取組を観戦した。徳仁と雅子の大相撲観戦は2017年(平成29年)5月以来で、天皇即位後初の天覧相撲となる。愛子内親王は2007年(平成19年)9月以来の観戦となった[46]

同年2月10日三の丸尚蔵館での御即位記念特別展「令和の御代を迎えて」を皇后雅子同伴で鑑賞[45]

同年2月23日、即位後初の天皇誕生日で60歳(還暦)を迎える。同日実施予定の皇居での令和時代最初の天皇誕生日一般参賀は、新型コロナウイルス感染拡大の影響のため中止となる。その2日前の2月21日赤坂御所での記者会見に臨む[47]

同年4月6日、宮内庁は、天皇即位に伴う社会福祉事業への寄付について、政府が創設した「子供の未来応援基金」と、国やボランティア団体の調整役などを担うNPO法人(特定非営利活動法人)「全国災害ボランティア支援団体ネットワーク」に、それぞれ5千万円ずつ行うことを発表した。寄付金は天皇の私的な「お手元金」から拠出され、それぞれ子供の貧困問題関連事業と、被災者支援関連事業に充てられるという。宮内庁の池田憲治次長は同日の定例会見で「天皇皇后両陛下は、子供の貧困問題と、平成時に数多く発生した災害を契機に役割が高まっているボランティアによる被災者支援に対する国民の理解が深まることを願われている」と述べた。日本国憲法第8条では皇室が寄付をする場合、国会の議決が必要と規定、寄付額が年間1800万円を超える場合に適用される。同年3月の第201回国会(常会)参議院本会議で、天皇が4月30日までの間、社会福祉事業へ1億円以内の寄付をすることを可能とする議決案を可決した。父・明仁の即位の際にも、児童福祉と障害者支援の2団体に5千万円ずつ計1億円が寄付された[48][49]

4月10日、天皇・皇后は住居の赤坂御所に政府の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長尾身茂を招き、尾身による進講として約1時間半にわたり国内外の感染状況などについて説明を受けた。徳仁は冒頭、医療関係者らに感謝を示した上で、「私たち皆がなお一層心を一つにして力を合わせながら、この感染症を抑え込み、現在の難しい状況を乗り越えていくことを心から願っています」と述べた。徳仁・雅子はメモを取りながら、「どうすれば医療崩壊を防げるか」などについて積極的に質問し、「国民が一丸となって乗り越えなければならないですね」などと話した[50]

新型コロナウイルス(COVID-19)感染拡大を巡っては、天皇徳仁と皇后雅子は同年3月、愛子内親王学習院女子高等科卒業に際して公表した文書でも「我が国の国民、そして世界の多くの人々が直面している様々な困難や苦労に深く思いを致しています」と憂慮していた[51]

2021年(令和3年)1月2日に実施予定であった恒例行事である皇居での新年一般参賀は新型コロナウイルス感染拡大により、中止となった。その代わりに1月1日に、国民に向けて天皇徳仁と皇后雅子が国民向けに新年ビデオメッセージを送った[52]。翌年2022年(令和4年)1月1日も同様に、新年一般参賀中止の代わりに、国民向けに新年ビデオメッセージ(字幕付き)を送った[53]

2021年(令和3年)6月24日に、西村泰彦宮内庁長官より(2週間に1度行われる)定例記者会見で、「自身(徳仁)が名誉総裁で開催宣言をする五輪の開催が、新型コロナウイルス感染拡大につながらないかと心配・懸念していると拝察する」旨の発言があった[54]

2021年(令和3年)7月23日オリンピック・スタジアム国立競技場)で行われた2020年東京オリンピックの開会式に臨席し、「私はここに第32回近代オリンピアードを記念する、東京大会の開会を宣言します。」と開会宣言を行った[55]。これには、新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言下にあって、「祝う」といった祝祭感を表現する文言は避けられた。天皇による近代オリンピック開会式での開会宣言は、1964年東京オリンピック1972年札幌オリンピックでの祖父・昭和天皇1998年長野オリンピックでの父・明仁に続いて4回目となった。

2021年(令和3年)9月20日、天皇一家で引っ越しに伴う荷物の搬送作業が終了したため、一時滞在していた皇居宮殿を出て、皇居御所に入居した。御所は2020年(令和2年)3月、両親の上皇夫妻が仙洞仮御所(東京都港区)に引っ越しした後、2021年6月まで改修工事が行われた。天皇一家は9月6日に旧赤坂御所を出発。皇位とともに受け継がれる剣と璽が御所に納められた後、荷物の搬送作業中は宮殿に滞在していた。宮殿には宿泊設備がないため、寝具などは事前に運び込まれた。側近によると、天皇皇后と愛子内親王は滞在中、御所を訪れて作業に当たる職員らをねぎらったという。旧赤坂御所は仙洞御所となり、改修工事を経て上皇夫妻が移り住んだ[56]

2022年(令和4年)9月10日9月9日午前2時頃(日本時間)のイギリス英連邦王国女王エリザベス2世崩御を受け[57]、徳仁は「エリザベス女王陛下崩御の報に接し、深い悲しみの気持ちと心よりの哀悼の意を表します。女王陛下は70年の長きにわたり英国女王として同国並びに英連邦諸国の国を導き、励まされました。また、世界の平和と安寧を常に願われた、その御姿勢は世界の多くの人々に深い感銘を与えました。女王陛下が残された数多くの御功績と御貢献に心からの敬意と感謝を表明いたします。我が国との関係においても、女王陛下は両国の関係を常に温かく見守ってくださり、英王室皇室の関係にも御心を寄せてくださいました。私の英国留学や英国訪問に際しても、様々な機会に温かく接していただき、幾多の御配慮をいただいたことに重ねて深く感謝したいと思います。また、女王陛下から私の即位後初めての外国訪問として私と皇后を英国を御招待いただいたことについて、そのお気持ちに皇后とともに心から感謝しております。」との「お気持ち」を発表し、雅子とともに9月9日から11日までの3日間、喪に服した[58][59]。また、9月12日駐日英国大使館別所浩郎侍従長を弔問のため派遣させた[60]

即位後初の外国訪問として、同年9月17日から20日の日程で、英国女王エリザベス2世の国葬に参列するために皇后雅子同伴で同国を訪問した[61][62][63]

同年11月27日、天皇徳仁は前立腺特異抗原(PSA)と呼ばれる前立腺に関する数値にやや懸念される傾向が見られることから、東京都文京区の東京大学医学部附属病院に1泊2日の日程で入院し、前立腺の組織を採取する詳しい検査を受けた。宮内庁は12月2日、採取した組織を詳しく調べた結果、異常は認められなかったとし、これまでの検査で前立腺の肥大が認められ、今後も血液検査を行うなど経過観察を続けると発表した[64]

2023年(令和5年)1月20日、皇居東御苑で行われた皇宮警察年頭視閲式を皇后雅子同伴で観覧した。同式典に天皇皇后が出席するのは初めてで、徳仁は1986年(昭和61年)の皇宮警察本部創立100周年を記念した視閲式以来、2度目の出席となった[65]

即位後初の親善訪問として、同年6月17日から23日の日程で、インドネシアを国賓訪問した。同国では首都ジャカルタ近郊の大統領宮殿でジョコ・ウィドド大統領夫妻が主催する午餐会に出席したほか、太平洋戦争後もインドネシアにとどまりオランダとの独立戦争に加わった「残留日本兵」と呼ばれる元日本兵の子孫との懇談、ジャワ島中部ジョグジャカルタ近郊にある世界遺産ボロブドゥール寺院の視察などを行った[66]

同年10月20日国会開会式に臨席した際、額賀福志郎衆議院議長が式辞朗読後すぐに退出すべきところを段取りを間違えて、直接天皇に式辞が書かれた紙を手渡そうとしたところ天皇は黙って受け取った。式後に額賀が皇居を訪問して宮内庁長官に陳謝し長官がこれを天皇に奏上したところ、天皇は長官を通じて「誰にでも間違いはあることですから、気にされないように」と伝えた、と報じられた[67]

年譜

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皇子女

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皇后雅子との間に、1女(1人)がいる。明仁上皇、第125代天皇)の皇孫にあたる。

及び身位 画像 生年月日 / 年齢 御称号 続柄
愛子あいこ内親王 平成13年(2001年)12月1日(23歳) 敬宮としのみや 第1皇女子(第1子)

系譜

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徳仁の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 122代天皇
明治天皇
 
 
 
 
 
 
 
8. 123代天皇
大正天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 柳原愛子
 
 
 
 
 
 
 
4. 124代天皇
昭和天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 九条道孝
 
 
 
 
 
 
 
9. 九条節子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. 野間幾子
 
 
 
 
 
 
 
2. 125代天皇
明仁
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20.久邇宮朝彦親王
 
 
 
 
 
 
 
10. 久邇宮邦彦王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. 泉萬喜子
 
 
 
 
 
 
 
5. 久邇宮良子女王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22. 島津忠義
 
 
 
 
 
 
 
11. 島津俔子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
23. 山崎寿満子
 
 
 
 
 
 
 
1. 126代天皇
徳仁
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 正田作次郎
正田文右衛門 (3代)次男)
 
 
 
 
 
 
 
12. 正田貞一郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. 正田幸
 
 
 
 
 
 
 
6. 正田英三郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. 正田文右衛門 (5代)
 
 
 
 
 
 
 
13. 正田きぬ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
27. 正田あつ
 
 
 
 
 
 
 
3. 上皇后美智子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. 副島哲吾
 
 
 
 
 
 
 
14. 副島綱雄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7. 正田富美子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
15. 副島アヤ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第126代:徳仁 父:
第125代:明仁
祖父:
第124代:昭和天皇
曽祖父:
第123代:大正天皇
曽祖母:
貞明皇后
祖母:
香淳皇后
曽祖父:
邦彦王久邇宮
曽祖母:
俔子
母:
美智子上皇后
祖父:
正田英三郎
曽祖父:
正田貞一郎
曽祖母:
正田きぬ
祖母:
正田富美子
曽祖父:
副島綱雄
曽祖母:
副島アヤ

系図

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122 明治天皇
 
 
 
 
123 大正天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
124 昭和天皇
 
秩父宮雍仁親王
 
高松宮宣仁親王
 
三笠宮崇仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
125 上皇
 
常陸宮正仁親王
 
寬仁親王
 
桂宮宜仁親王
 
高円宮憲仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
126 今上天皇
 
秋篠宮文仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
悠仁親王


第126代天皇の男系(父系)直系祖先

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  • 代数は『皇統譜』による。
  • 北朝は歴代に算入していない。
1 神武天皇 2 綏靖天皇 3 安寧天皇 4 懿徳天皇 5 孝昭天皇 6 孝安天皇 7 孝靈天皇 8 孝元天皇 9 開化天皇 10 崇神天皇
11 垂仁天皇 12 景行天皇 日本武尊 14 仲哀天皇 15 応神天皇 稚野毛二派皇子 意富富杼王 乎非王 彦主人王 26 継体天皇
29 欽明天皇 30 敏達天皇 押坂彦人
大兄皇子
34 舒明天皇 38 天智天皇 志貴皇子 49 光仁天皇 50 桓武天皇 52 嵯峨天皇 54 仁明天皇
58 光孝天皇 59 宇多天皇 60 醍醐天皇 62 村上天皇 64 円融天皇 66 一条天皇 69 後朱雀天皇 71 後三条天皇 72 白河天皇 73 堀河天皇
74 鳥羽天皇 77 後白河天皇 80 高倉天皇 82 後鳥羽天皇 83 土御門天皇 88 後嵯峨天皇 89 後深草天皇 92 伏見天皇 93 後伏見天皇 北1 光厳天皇
北3 崇光天皇 栄仁親王(伏見宮) 貞成親王(伏見宮) 102 後花園天皇 103 後土御門天皇 104 後柏原天皇 105 後奈良天皇 106 正親町天皇 誠仁親王 107 後陽成天皇
108 後水尾天皇 112 霊元天皇 113 東山天皇 直仁親王(閑院宮) 典仁親王(慶光院) 119 光格天皇 120 仁孝天皇 121 孝明天皇 122 明治天皇 123 大正天皇
124 昭和天皇 125 明仁 126 徳仁
 
 
 
 
 
 
 
 
歴代天皇
 
歴代皇后
 
親王
 
内親王女王
 
臣籍降下
 
 
 
 
大正天皇(明治天皇の子)
 
貞明皇后(大正天皇の妻)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昭和天皇(大正天皇の子)
 
香淳皇后(昭和天皇の妻)
 
秩父宮雍仁親王(大正天皇の子)
 
雍仁親王妃
勢津子
(秩父宮雍仁親王の妻)
 
高松宮宣仁親王(大正天皇の子)
 
宣仁親王妃
喜久子
(高松宮宣仁親王の妻)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三笠宮崇仁親王(大正天皇の子)
 
崇仁親王妃
百合子
(三笠宮崇仁親王の妻)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
東久邇成子
(照宮)
(昭和天皇の子、臣籍降下)
 
久宮祐子内親王(昭和天皇の子)
 
鷹司和子
(孝宮)
(昭和天皇の子、臣籍降下)
 
池田厚子
(順宮)
(昭和天皇の子、臣籍降下)
 
上皇
明仁
(昭和天皇の子)
 
上皇后
美智子
(上皇明仁の妻)
 
常陸宮正仁親王(昭和天皇の子)
 
正仁親王妃
華子
(常陸宮正仁親王の妻)
 
島津貴子
(清宮)
(昭和天皇の子、臣籍降下)
 
近衞甯子(三笠宮崇仁親王の子、臣籍降下)
 
寬仁親王(三笠宮崇仁親王の子)
 
寬仁親王妃
信子
(寬仁親王の妻)
 
桂宮
宜仁親王
(三笠宮崇仁親王の子)
 
千容子(三笠宮崇仁親王の子、臣籍降下)
 
高円宮憲仁親王(三笠宮崇仁親王の子)
 
憲仁親王妃
久子
(高円宮憲仁親王の妻)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天皇
徳仁
(明仁の子)
 
皇后
雅子
 
皇嗣秋篠宮文仁親王(明仁の子)
 
皇嗣妃文仁親王妃紀子(秋篠宮文仁親王の妻)
 
黒田清子
(紀宮)
(明仁の子、臣籍降下)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
彬子女王(寬仁親王の子)
 
瑶子女王(寬仁親王の子)
 
 
 
 
 
承子女王(高円宮憲仁親王の子)
 
千家典子(高円宮憲仁親王の子、臣籍降下)
 
守谷絢子(高円宮憲仁親王の子、臣籍降下)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
敬宮愛子内親王(徳仁の子)
 
 
 
小室眞子(秋篠宮文仁親王の子)
 
佳子内親王(秋篠宮文仁親王の子)
 
悠仁親王(秋篠宮文仁親王の子)

家系図形式

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  • 各囲みの一段目は、いみな/生年-没年/性別 の形式で表記。
  • 各囲みの二段目と三段目の下部の数字は即位年と退位年である。
  • 年は西暦で記し、「前」は紀元前、「?」は不詳を表す。
  • (諡)」記号は名称が漢風諡号かんふうしごう(生前の行跡に基づいて死後に贈られた名)であることを意味する。
  • (第~代)」は天皇の代数[要出典]
  • 記紀による初代天皇(神武天皇)以前の系図については、皇室皇室の系図一覧を参照。
天照大御神/神話上の存在/♀
 
 
 
天忍穂耳/神話上の存在/♂
 
 
 
瓊瓊杵/神話上の存在/♂
 
 
 
彦火火出見/神話上の存在/♂
 
 
 
彦波瀲武盧茲草葺不合/神話上の存在/♂
 
 
 
彦火火出見/前711-前585/♂
神武天皇(諡)
前660-前585(第1代)
 
 
 
(諱不明)/前632-前549/♂
綏靖天皇(諡)
前581-前549(第2代)
 
 
 
(諱不明)/前577-前510/♂
安寧天皇(諡)
前549-前510(第3代)
 
 
 
(諱不明)/前553-前476/♂
懿徳天皇(諡)
前510-前476(第4代)
 
 
 
(諱不明)/前506-前393/♂
孝昭天皇(諡)
前475-前393(第5代)
 
 
 
(諱不明)/前427-前291/♂
孝安天皇(諡)
前392-前291(第6代)
 
 
 
(諱不明)/前342-前215/♂
孝靈天皇(諡)
前290-前215(第7代)
 
 
 
(諱不明)/前273-前158/♂
孝元天皇(諡)
前214-前158(第8代)
 
 
 
(諱不明)/前208-前98/♂
開化天皇(諡)
前157-前98(第9代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
御間城/前148-前29/♂
崇神天皇(諡)
前97-前29(第10代)
 
 
 
 
 
彦坐/?-?/♂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
活目/前68-70/♂
垂仁天皇(諡)
前29-70(第11代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大足彦/前13-130/♂
景行天皇(諡)
71-130(第12代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本武/82?-113?/♂
 
稚足彦/84-191/♂
成務天皇(諡)
131-191(第13代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
足仲彦/148?-200/♂
仲哀天皇(諡)
192-200(第14代)
 
 
 
 
 
気長足姫/170-269/♀
神功皇后(諡)
201-269(摂政)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
譽田/200-310/♂
應神天皇(諡)
270-310(第15代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大鷦鷯/257-399/♂
仁徳天皇(諡)
313-399(第16代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稚野毛二派/?-?/♂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
去来穂/336?-405/♂
履中天皇(諡)
400-405(第17代)
 
瑞歯/336?-410/♂
反正天皇(諡)
406-410(第18代)
 
雄朝津間稚子/376?-453/♂
允恭天皇(諡)
413-453(第19代)
 
忍坂大中姫/?-?/♀
 
意富富杼/?-?/♂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市辺押磐/?-?/♂
 
 
 
 
 
穴穂/401-456/♂
安康天皇(諡)
454-456(第20代)
 
大泊瀬幼武/418-479/♂
雄略天皇(諡)
456-479(第21代)
 
乎非/?-?/♂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
億計/449-498/♂
仁賢天皇(諡)
488-498(第24代)
 
弘計/450-487/♂
顯宗天皇(諡)
484-487(第23代)
 
飯豊青/440-484/♀
484-484(臨朝秉政)
 
白髪/444-484/♂
清寧天皇(諡)
480-484(第22代)
 
彦主人/?-?/♂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小泊瀬稚鷦鷯/489-507/♂
武烈天皇(諡)
498-507(第25代)
 
手白香/?-?/♀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
男大迹/450-531/♂
繼體天皇(諡)
507-531(第26代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
志帰嶋/509-571/♂
欽明天皇(諡)
540-571(第29代)
 
勾/465-536/♂
安閑天皇(諡)
531-536(第27代)
 
高田/467-539/♂
宣化天皇(諡)
536-539(第28代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
他田/538-585/♂
敏達天皇(諡)
572-585(第30代)
 
額田部/554-628/♀
推古天皇(諡)
593-628(第33代)
 
池辺/540?-587/♂
用明天皇(諡)
585-587(第31代)
 
泊瀬部/553?-592/♂
崇峻天皇(諡)
587-592(第32代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
押坂彦人/?-?/♂
 
 
 
 
 
厩戸/574-622/♂
聖徳太子(諡)
593-622(摂政)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
茅渟/?-?/♂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
軽/596-654/♂
孝徳天皇(諡)
645-654(第36代)
 
宝/594-661/♀
皇極天皇(諡)
642-645(第35代)
齊明天皇(諡)
654-661(第37代)
 
 
 
田村/593-641/♂
舒明天皇(諡)
629-641(第34代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
葛城/626-672/♂
天智天皇(諡)
661-672(第38代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大友/648-672/♂
弘文天皇(諡)
672(第39代)
 
 
 
 
鸕野讚良/645-701/♀
持統天皇(諡)
690-697(第41代)
 
 
 
大海人/631?-686/♂
天武天皇(諡)
672-686(第40代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
志貴/668?-716/♂
春日宮天皇(諡)
(追尊)
 
 
 
阿閇/661-721/♀
元明天皇(諡)
707-715(第43代)
 
草壁/662-689/♂
岡宮天皇(諡)
(追尊)
 
 
舎人/676-735/♂
崇道尽敬天皇(諡)
(追尊)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
氷高/680-748/♀
元正天皇(諡)
715-724(第44代)
 
珂瑠/683-707/♂
文武天皇(諡)
697-707(第42代)
 
 
大炊/733-765/♂
淳仁天皇(諡)
758-764(第47代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
首/701-756/♂
聖武天皇(諡)
724-749(第45代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高野新笠/?-790/♀
 
白壁/709-782/♂
光仁天皇(諡)
770-781(第49代)
 
井上/717-775/♀
 
阿倍/718-770/♀
孝謙天皇(諡)
749-758(第46代)
称徳天皇(諡)
764-770(第48代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山部/737-806/♂
桓武天皇(諡)
(別名: 柏原帝)
781-806(第50代)
 
早良/750?-785/♂
崇道天皇(諡)
(追尊)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
安殿/774-824/♂
平城天皇(諡)
(別名: 奈良帝)
806-809(第51代)
 
神野/786-842/♂
嵯峨天皇(諡)
809-823(第52代)
 
大伴/786-840/♂
淳和天皇(諡)
(別名: 西院帝)
823-833(第53代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
正良/810-850/♂
仁明天皇(諡)
(別名: 深草帝)
833-850(第54代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
道康/827-858/♂
文徳天皇(諡)
(別名: 田邑帝)
850-858(第55代)
 
時康/830-887/♂
光孝天皇(諡)
(別名: 小松帝)
884-887(第58代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
惟仁/850-880/♂
清和天皇(諡)
(別名: 水尾帝)
858-876(第56代)
 
定省/867-931/♂
宇多天皇(諡)
887-897(第59代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貞明/869-949/♂
陽成天皇(諡)
876-884(第57代)
 
敦仁/885-930/♂
醍醐天皇(諡)
897-930(第60代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寛明/923-952/♂
朱雀天皇(諡)
930-946(第61代)
 
成明/926-967/♂
村上天皇(諡)
946-967(第62代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
憲平/950-1011/♂
冷泉天皇(諡)
967-969(第63代)
 
 
 
 
 
守平/959-991/♂
圓融天皇(諡)
969-984(第64代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
師貞/968-1008/♂
花山天皇(諡)
984-986(第65代)
 
居貞/976-1017/♂
三條天皇(諡)
1011-1016(第67代)
 
 
 
懐仁/980-1011/♂
一條天皇(諡)
986-1011(第66代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
禎子/1013-1094/♀
 
敦良/1009-1045/♂
後朱雀天皇(諡)
1036-1045(第69代)
 
敦成/1008-1036/♂
後一條天皇(諡)
1016-1036(第68代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尊仁/1034-1073/♂
後三條天皇(諡)
1068-1073(第71代)
 
親仁/1025-1068/♂
後冷泉天皇(諡)
1045-1068(第70代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貞仁/1053-1129/♂
白河天皇(諡)
1073-1087(第72代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
善仁/1079-1107/♂
堀河天皇(諡)
1087-1107(第73代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗仁/1103-1156/♂
鳥羽天皇(諡)
1107-1123(第74代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
顕仁/1119-1164/♂
崇徳天皇(諡)
1123-1142(第75代)
 
雅仁/1127-1192/♂
後白河天皇(諡)
1155-1158(第77代)
 
体仁/1139-1155/♂
近衞天皇(諡)
1142-1155(第76代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
守仁/1143-1165/♂
二條天皇(諡)
1158-1165(第78代)
 
 
 
憲仁/1161-1181/♂
高倉天皇(諡)
1168-1180(第80代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
順仁/1164-1176/♂
六條天皇(諡)
1165-1168(第79代)
 
言仁/1178-1185/♂
安徳天皇(諡)
1180-1185(第81代)
 
守貞/1179-1223/♂
後高倉天皇(諡)
(追尊)
 
尊成/1180-1239/♂
後鳥羽天皇(諡)
1185-1198(第82代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
茂仁/1212-1234/♂
後堀河天皇(諡)
1221-1232(第86代)
 
為仁/1196-1231/♂
土御門天皇(諡)
1198-1210(第83代)
 
守成/1197-1242/♂
順徳天皇(諡)
1210-1221(第84代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
秀仁/1231-1242/♂
四條天皇(諡)
1232-1242(第87代)
 
邦仁/1220-1272/♂
後嵯峨天皇(諡)
1242-1246(第88代)
 
懐成/1218-1234/♂
仲恭天皇(諡)
1221(第85代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗尊/1242-1274/♂
1252-1266(鎌倉将軍6)
 
 
 
 
久仁/1243-1304/♂
後深草天皇(諡)
1246-1260(第89代)
 
 
 
 
 
 
恒仁/1249-1305/♂
龜山天皇(諡)
1260-1274(第90代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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