斎藤守圀
斎藤 守圀(さいとう もりくに、1884年(明治17年)8月15日[1] - 1945年(昭和20年)9月18日[2])は、日本の内務官僚。官選県知事。
経歴
[編集]本籍・愛媛県[3]。東京市芝区西久保[4]において斎藤省吾の長男として生まれる[5]。府立一中[要出典]、第一高等学校を経て、1907年、東京帝国大学法科大学を卒業[6]。1908年11月、文官高等試験行政科試験に合格[6]。内務省に入り神奈川県属となる[6]。
以後、和歌山県事務官、宮崎県事務官、宮崎県警察部長、福井県警察部長、長崎県警察部長、神奈川県警察部長、内務書記官、内務省参事官兼内務大臣秘書官、内務監察官、警保局警務課長兼衛生局保健課長、大臣官房文書課長などを歴任[4][3]。
1922年6月、千葉県知事に就任。銚子漁港の修築、野田醤油労働争議の仲介、関東大震災後の復旧などに取り組む[4]。
1924年6月、埼玉県知事に転任。関東大震災後の復興、児童保護委員の設置、自作農創設維持貸付資金制度の発足などを行った[5]。
1927年5月、福岡県知事に転任。農村の電化、種鶏場・水産試験場の新築、社会教育会館などの建築、産業道路網の整備などを実施した。1929年7月に知事を退任した[3]。
その後、東京市助役[6]、原田積善会監事[3]などを務めた。