景福宮
座標: 北緯37度34分43.00秒 東経126度58分38.00秒 / 北緯37.5786111度 東経126.9772222度
景福宮 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 경복궁 |
漢字: | 景福宮 |
発音: | キョンボックン |
日本語読み: | けいふくきゅう |
ラテン文字: | Gyeongbokgung |
景福宮(けいふくきゅう、朝: 경복궁、キョンボックン)は、朝鮮王朝(李氏朝鮮)の王宮である。現在の韓国ソウル特別市にある。
概要
[編集]李成桂により1395年に現在の大韓民国ソウル特別市鐘路区世宗路1-56に置かれた朝鮮王朝の王宮。近代では、大日本帝国に併合された後に朝鮮総督府の庁舎が置かれた。韓国建国後は、敷地の一部に大統領府(青瓦台)が置かれていたが、2022年に移転した。現在は景福宮の中心部に1867年に興宣大院君再建された勤政門や勤政殿などが現存し、建物の復元が進行中。
歴史
[編集]朝鮮王朝の開祖李成桂は1392年に開城で王に即位、その2年後の1394年に漢陽(漢城、現在のソウル)への遷都を決定。無学大師の風水に基づき漢江の北、北岳山の南にあたる「陽」の地が選ばれ、李成桂が開城で政務を執っている間から王宮の建設が始まった。鄭道伝によって「景福宮」と命名され、1395年から李氏朝鮮の正宮として使用された。1397年には漢陽の城郭と四大城門が完成した。その後約200年間、正宮として使用され、1553年に大火によって焼失した。1592年の文禄の役において、国王の宣祖が漢城から逃亡して治安が乱れると、先陣争いをする小西行長らの一番隊や加藤清正らの二番隊の入城を前に朝鮮の民衆によって略奪と放火の対象となり再び焼失した[1]。
その後は離宮の昌徳宮が正殿に使用され、景福宮は約270年の間再建されなかった。
朝鮮王朝末期から日本統治時代
[編集]朝鮮王朝末期の1865年に高宗の父興宣大院君が再建し、1868年に国王の住居と政務を昌徳宮から移したが、1896年に高宗はロシア公使館へ逃げ込み、そこで政務を執るようになり(露館播遷)、宮殿には王が不在となった。その後正宮は1897年に慶運宮(徳寿宮の当時の名称)に、1907年に純宗の即位で昌徳宮に移る。1910年、韓国併合条約により大韓帝国の統治が終了すると、王宮としての役割をなくした景福宮に代わり、朝鮮統治を後継した朝鮮総督府の庁舎の建設が景福宮敷地で1912年から始まり、1926年に完成した。景福宮の資材は大火にあった昌徳宮の修復に使用され、光化門は正面から移設された。
現在
[編集]韓国独立後、景福宮内の旧朝鮮総督府庁舎は中央庁および韓国国立中央博物館に利用されていたが、景福宮復元計画により賛否両論の中で1996年に解体された。現在は光化門を正門、勤政殿を正殿とし、それを結ぶ線に対して左右対称に建物が配置されている。これは北京の紫禁城などの様式を倣ったもので、儒教の思想や伝統にかなったものである。また中には優雅な庭園が配されており、宮殿の中にいながら山河に遊ぶことができるようになっている。宮殿北側にある部分は2022年5月まで大韓民国大統領官邸(いわゆる青瓦台)に使用されていた。光化門は1968年に鉄筋コンクリート造で外観復元されたが、総督府庁舎があったため正確な位置ではなかった。そのため2006年に撤去され、2010年、正確な位置に復元された。景福宮は1990年から復元事業が行われており、2010年の光化門復元は第一次事業の最後を飾るものであった。第一段階事業によって89棟が復元され、これは1865年再建当時の25%水準となる。第二次復元事業は2011年から始まり2030年に終える予定である。第二段階復元事業により379棟を復元し1865年再建当時の75%の水準を回復する。第一次復元事業では主だった建物が復元されたが、第二次復元事業では付属の建物の復元も進められる。
建造物
[編集]前朝
[編集]後廷
[編集]- 嚮五門
- 康寧殿
- 両儀門
- 交泰殿
- 蛾眉山
- 東宮
- 慶会楼 - 国宝第224号
- 欽敬閣
- 含元殿
- 慈慶殿
- 醉香橋
- 香遠亭
- 乾清宮
附属建築
[編集]- 建春門(東門)
- 迎秋門(西門)
- 玄武門(北門)
- 東西十字閣
- 泰元殿
- 集玉斎
- 協吉堂
- 八隅亭
- 景武台(青瓦台)
- 七宮
- 勤政殿
- 勤政殿内部(王座)
- 思政殿
- 康寧殿
- 交泰殿
- 慶会楼
- 慈慶殿
- 資善堂
- 香遠亭
- 国立民俗博物館
- 神武門
- 光化門の護衛
- 興礼門
- 慶會楼
交通
[編集]脚注
[編集]- ^ 朝鮮王朝の正史『朝鮮王朝実録(宣祖修正実録)』二十五年(1592年)4月14日(癸卯)条には、民衆によって略奪・放火されたと明記されており、李廷馥の『四留斎集』や李恒福の『白沙集』と李曁の『松窩雑説』にもその時の様子が記されている。日本側記録『大徳寺文書』では国王が内裏に放火して逃亡したとある。また小西行長の一番隊に属した松浦鎮信の家臣の記録『吉野甚五左衛門覚書』には「五月二日の夕くれに、都は是より一日路と聞こえし所の河バた(端)にて、都のかた詠むれバ、放火のけぶり(煙)立登り、…(中略、翌朝入京すると)…くうでん(宮殿)・ろうかく(楼閣)数々に、だいりだいり(内裏々々)に火を掛けて、上下万民ことごとく、唐国さして落ちにける」との記録がある。いずれにせよ日韓双方の記録が秀吉軍の入城を前に焼失したとしている。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 景福宮(キョンボックン)紹介 - ソウル特別市公式観光サイト
- 朝鮮総督府建設前後の景福宮・光化門
- 大韓ニュース 第1856号 景福宮復元工事 起工式 制作日:1991年6月5日
- 大韓ニュース 第2011号 景福宮復元 制作日:1994年5月25日
- 景福宮に関連する地理データ - オープンストリートマップ