松尾吾策
松尾 吾策(まつお ごさく、1903年(明治36年)1月6日[1] - 1988年(昭和63年)6月16日[1])は、日本の政治家。元岐阜市長。父は元岐阜市長で貴族院議員であった松尾国松。
概要・略歴
[編集]- 岐阜県稲葉郡木田村(現・岐阜市)出身。
- 岐阜中学卒業。同級生には野田卯一(元衆議院代議士)、日比野恒次(元電通社長)らがいる。明治大学法学部中退。
- 1925年(大正14年)から内務省土木局土木課に勤め、1932年(昭和7年)に内務省在籍の扱いで岐阜県土木課に勤務する。
- 1950年(昭和25年)に岐阜県庁を辞め、1951年(昭和26年)から1954年(昭和29年)に岐阜市助役を務める。
- 1955年(昭和30年)2月27日、岐阜市長に就任。4期目の途中の1969年(昭和44年)8月に脳血栓を発病したため、1970年(昭和45年)8月6日に市長を辞職する。
- 岐阜市長の在任中の業績としては、赤字財政の再建、土木事業の振興があげられる。道路整備の一つとして、簡易舗装(タール舗装)の推進。金華橋、千鳥橋の開通がある。また、畜産センター、三田洞神仏温泉、長良川温泉を開業している。現在の岐阜市役所庁舎を建設する。
- 教育では岐阜市立岐阜商業高等学校の開設、岐阜薬科大学の移転がある。また、岐阜県立岐山高等学校の名付け親である。
- 在任中の昭和の大合併では、岐阜市周辺の村(日置江村、芥見村、合渡村、三輪村、網代村)を編入し、現在の岐阜市の原型となっている。
- 中国と国交の無い1962年(昭和37年)、中国杭州市に「日中不再戦」の揮毫を送る。この揮毫は抗州市の柳浪聞鶯公園に碑文となっている。
- 1970年(昭和45年)、岐阜市名誉市民となる[2]。
- 1980年(昭和55年)、岐阜日日新聞に「松尾吾策回顧録」を連載する。
- 1988年(昭和63年)、『ぎふ中部未来博』の開幕を目前にして逝去。
その他
[編集]- 岐阜県立岐山高等学校の名づけ親であるが、松尾吾策回顧録によると、「岐山」は父親の松尾国松の号であるという(元々は織田信長が岐阜の名前をつける際の候補)。
- 1966年(昭和41年)、周囲の推薦もあり、岐阜県知事選挙立候補へ向けて準備を行なっていた。しかし、立候補直前で病気が見つかり立候補を取りやめたという。
脚注
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