楚渓春
楚渓春 | |
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プロフィール | |
出生: | 1896年(清光緒24年) |
死去: | 1966年9月12日 中国北京市 |
出身地: | 清直隷省保定府蠡県 |
職業: | 軍人・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 楚溪春 |
簡体字: | 楚溪春 |
拼音: | Chŭ Xīchūn |
ラテン字: | Ch'u Hsi-ch'un |
和名表記: | そ けいしゅん |
発音転記: | チュー シーチュン |
楚 渓春(そ けいしゅん)は、中華民国の軍人、中華人民共和国の政治家。山西派(晋軍)出身の国民革命軍軍人である。字は晴波。
事績
[編集]直隷陸軍小学堂、清河陸軍第一予備学校を経て、保定陸軍軍官学校に入学する。1918年(民国7年)に卒業し、閻錫山率いる山西軍(晋軍)に加入した。1923年(民国12年)、陸軍第20師主任参謀兼軍官教育団大隊長に昇進している。1925年(民国14年)、臨時執政府衛隊旅参謀長となり、まもなく山西省に戻って教導団教育長となった。[1]
閻錫山が易幟した後の1927年秋に、国民革命軍第3集団軍第7軍少将参謀長に任ぜられ、後に左路軍前敵総指揮参謀長となった。1928年(民国17年)、北平中将憲兵司令に任ぜられ、同年末に第125旅旅長となる。1930年(民国19年)11月、第27師師長に昇進し、さらに北平警備司令兼平綏路護路司令となった。1931年(民国20年)、晋軍第4軍副軍長に昇進する。1934年(民国23年)から陸軍大学特別班第2期で学んだ。1936年(民国25年)8月に陸軍少将銜を、翌年5月には陸軍中将銜を授与された。[1][2]
日中戦争(抗日戦争)勃発後、楚渓春は山西民族革命同志会高級幹部委員会委員となり、さらに第2戦区参謀長に任ぜられた。1941年(民国30年)3月、第8集団軍副総司令に昇進し、さらに第2戦区北区軍総司令に任ぜられた。日中戦争終結後、大同で日本軍の降伏受諾官を務めている。1947年(民国36年)9月、国民政府主席東北行轅総参議兼瀋陽防守司令官に任命される。同年12月、河北省政府主席に任ぜられ、さらに北平督察総監や保定綏靖公署主任も兼任した。[1][2]
1949年(民国38年)1月、楚渓春は傅作義の北平無血開城に従った。中華人民共和国建国後は、政務院(後の国務院)参事、第2期から第4期の中国人民政治協商会議全国委員会委員、中国国民党革命委員会(民革)中央委員兼秘書長、全国文史資料研究委員会委員などを歴任した。[1][2]
注
[編集]参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(国民政府)
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