横塚古墳
横塚古墳 | |
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横塚古墳の出土品 「しもつけ風土記の丘資料館」展示品 | |
所属 | しもつけ古墳群(石橋・薬師寺地域) |
所在地 | 栃木県下野市下古山522 |
位置 | 北緯36度26分30.90秒 東経139度51分17.55秒 / 北緯36.4419167度 東経139.8548750度座標: 北緯36度26分30.90秒 東経139度51分17.55秒 / 北緯36.4419167度 東経139.8548750度 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 | 墳丘長52m 高さ5.4m(後円部) |
埋葬施設 | 横穴式石室 |
出土品 | 副葬品多数・須恵器・埴輪 |
築造時期 | 6世紀後半 |
史跡 | なし |
特記事項 | 墳丘は非現存 |
地図 |
横塚古墳(よこつかこふん)は、栃木県下野市下古山にあった古墳。形状は前方後円墳。しもつけ古墳群(うち石橋・薬師寺地域)を構成した古墳のひとつ。現在では墳丘は失われている。
概要
[編集]古墳名 | 形状 | 規模 | 築造時期 | 史跡指定 |
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横塚古墳 | 前方後円墳 | 墳丘長52m | 6c後半 | (消滅) |
御鷲山古墳 | 前方後円墳 | 墳丘長83m | 6c後半 | なし |
下石橋愛宕塚古墳 | 帆立貝形古墳 | 墳丘長84m | 6c末 | (消滅) |
多功大塚山古墳 | 方墳 | 一辺54m | 7c中 | 町史跡 |
栃木県南部、姿川左岸の台地縁辺に築造された古墳である[1]。かつては周辺に多くの古墳が存在したというが、現在は数基のみが遺存する[2]。本古墳もかつて旧下野市立石橋中学校校庭に存在したが、現在では失われている。
墳形は前方後円形で、前方部を西方向に向ける。墳丘外表では円筒埴輪列(朝顔形埴輪含む)・形象埴輪(人物・靫形・大刀形・弓形・馬形埴輪など)が検出されている[3][4]。また墳丘周囲には幅約10 - 17mの周溝が巡らされ、周溝を含めた古墳全体としては70mに及ぶ[2]。
埋葬施設は前方部のくびれ部寄りにおける横穴式石室で、南方向に開口する。石室全長は約11mを測り、玄室・前室・羨道から構成される大型の複室構造の石室である[3]。石室の奥壁・天井石には凝灰岩(大谷石)が使用され、側壁は川原石の小口積みによって構築される[3]。
石室内からは副葬品として、装身具(金環・銀環・銅環・金銅製刀装具)、武器武具(直刀・刀子・鉄鏃・挂甲小札)、馬具(鞍の磯金具・雲珠)、須恵器(高坏・甕)などが出土している[4]。
築造時期は古墳時代後期の6世紀後半頃と推定される[3][4][2]。
石室内からの出土品は東京国立博物館に送られ、現地では石室奥壁とされる石材のみが遺存する。
遺跡歴
[編集]- 明治期、発掘。横穴式石室の確認[2]。
- 1908年(明治41年)、石室内出土品を帝室博物館(現在の東京国立博物館)に寄贈[2]。
- 1953年(昭和28年)、旧下野市立石橋中学校の校庭拡張に伴う発掘調査[2]。
- 1957年(昭和32年)、整地工事により消滅[2]。
墳丘
[編集]墳丘の規模は次の通り[2]。
- 墳丘長:約52メートル
- 後円部
- 直径:約32メートル
- 高さ:約5.4メートル
- 前方部
- 幅:約37メートル
- 高さ:約4.5メートル
関連施設
[編集]- しもつけ風土記の丘資料館(下野市国分寺) - 横塚古墳の出土品等を保管・展示。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 「横塚古墳」『日本歴史地名大系 9 栃木県の地名』平凡社、1988年。ISBN 4582490093。
- 史跡説明板(下野市教育委員会設置)
関連文献
[編集]- 記事執筆に使用していない関連文献
- 「横塚古墳」『石橋町史 第1巻 史料編 上』石橋町、1984年。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 横塚古墳 - 下野市文化財バーチャルミュージアム