欽慈太后
陳妃 | |
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北宋の追贈皇后 | |
別称 | 欽慈皇后、欽慈太后 |
出生 | 至和元年(1054年) 開封府祥符県 |
死去 | 元祐4年6月28日 (1089年8月7日) 開封府 |
配偶者 | 神宗 |
子女 | 徽宗 |
父親 | 陳守貴 |
欽慈太后(きんじたいごう)は、北宋神宗の妃嬪で徽宗の母。姓は陳氏。
生涯
[編集]開封府祥符県の庶民であった陳守貴の娘として生まれた。最初、後宮に入って福康公主(仁宗の長女)の侍女となった。神宗と即位後に関係して御侍となり、趙佶(後の徽宗)を産み、才人に進んだ。元豊8年(1085年)に神宗が崩ずると、美人に進封され、園陵の奉仕にあたった。憂憤のうちに病となり、飲食を拒否して「早く先帝のもとに奉仕したい」と言った。
元祐4年(1089年)6月、薨去。紹聖3年(1096年)4月、貴儀(嬪)に追封された。徽宗即位後の建中靖国元年(1101年)、皇太后に追尊された。
伝記資料
[編集]- 『宋史』
- 『宋会要輯稿』