水野隆
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名前 | ||||||
カタカナ | ミズノ タカシ | |||||
ラテン文字 | MIZUNO Takashi | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1931年4月28日 | |||||
出身地 | 兵庫県[要出典] | |||||
没年月日 | 不詳 | |||||
身長 | 163cm[1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
関西学院高等部 | ||||||
1950-1953 | 関西学院大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1954-? | 湯浅電池 | |||||
全関学/関学クラブ | ||||||
代表歴 | ||||||
1953-1959 | 日本 | 1 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
1962-1963 | 日本ユース | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
水野 隆(みずの たかし、旧姓:徳弘(とくひろ[2] )、1931年4月28日[2] - 没年不明)は日本の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW。
経歴
[編集]甲陽学院中学校在学中よりサッカーを始め、同中学4年修了後の1948年に関西学院高等部へ編入[1]。
1950年に関西学院大学に入学してサッカー部に入部した[1]。在学中の1953年に第33回天皇杯全日本サッカー選手権大会で全関学の一員として優勝に貢献。また、同年にドルトムントで開催された国際大学スポーツ週間(ユニバーシアードの前身)の日本学生選抜として井上健、木村現、平木隆三らと共に選出され、大会に出場した。
1954年に大学卒業後は湯浅電池に入社。なお、大学卒業後もサッカーを続け、1955年の第35回天皇杯全日本サッカー選手権大会で全関学の一員として、1958年の第38回天皇杯全日本サッカー選手権大会で関学クラブの一員としてそれぞれ優勝した。
日本代表としては1953年11月22日に大阪球場で行われたユールゴーデンIF(スウェーデン)戦で初出場[3]し、1954年アジア競技大会の日本代表にも選出され[4]、1955年10月9日に東京・後楽園競輪場で行われたビルマ代表戦で国際Aマッチ出場を果たした[5]。
引退後は指導者の道へ進み、日本ユース代表、日本B代表、中京大学体育会サッカー部などの監督を務めた。また愛知県サッカー協会常任理事としてサッカーの普及にも尽力した。
所属クラブ
[編集]代表歴
[編集]試合数
[編集]- 国際Aマッチ 1試合 0得点(1955)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1953 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 |
1954 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1955 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 |
1956 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1957 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1958 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1959 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 |
通算 | 1 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 |
出場
[編集]No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1955年10月09日 | 東京都 | 後楽園競輪場 | ビルマ | △0-0 | 竹腰重丸 | 国際親善試合 |
指導歴
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 甲陽だより(第75号) (PDF) 2007年2月28日、2014年8月22日閲覧
- ^ a b c 『日本代表公式記録集2008』 日本サッカー協会、2008年、571頁。
- ^ “[1953.11.22 大阪・難波球場]”. 日本サッカー協会. 2014年8月22日閲覧。
- ^ “第2回アジア競技大会(マニラ)”. 日本サッカー協会. 2014年8月22日閲覧。
- ^ “[1955.10.09 東京・後楽園競輪場]”. 日本サッカー協会. 2014年8月22日閲覧。