大埜正雄
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名前 | ||||||
カタカナ | オオノ マサオ | |||||
ラテン文字 | ONO Masao[1] | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1923年3月2日[1] | |||||
出身地 | 神奈川県 | |||||
没年月日 | 2001年2月11日(77歳没) | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
19xx-1940 | 湘南中学校 | |||||
1940-194x | 東京大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1949 | 東大LB | |||||
東京クラブ | ||||||
代表歴2 | ||||||
1952-1954 | 日本 | 3 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 2. 2011年8月15日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
大埜 正雄(おおの まさお、1923年3月2日 - 2001年2月11日)は、神奈川県出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW、HB。
来歴
[編集]神奈川県立湘南中学時代の1939年に全国中等学校蹴球選手権大会(全国高等学校サッカー選手権大会の前身)でベスト4に進出。1940年に湘南中学を卒業し、旧制水戸高等学校に進学。東京帝国大学経済学部へ進学しア式蹴球部に所属。東大LB(現役、OBで構成される混成チーム)の一員として有馬洪らと共に1949年の全日本選手権の優勝に貢献した。
大学卒業後は日産化学工業に入社した(勤務先でサッカー部活動を行ったかは不明)。
1955年に松永碩、岩淵功らと共に東京クラブに加入。同年の第1回都市対抗選手権優勝、翌1956年も大会連覇に貢献した。
日本代表としては、1952年6月8日の全香港華人選抜戦で初出場[2]。1954 FIFAワールドカップ・予選、1954年アジア競技大会など国際Aマッチ3試合に出場。1956年5月にはメルボルン五輪日本代表のコーチに就任した[3]。
所属クラブ
[編集]代表歴
[編集]出場大会
[編集]試合数
[編集]- 国際Aマッチ 3試合 0得点(1954)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1952 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 |
1953 | 0 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 |
1954 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 |
通算 | 3 | 0 | 3 | 0 | 6 | 0 |
出場
[編集]No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1954年03月14日 | 東京都 | 明治神宮外苑競技場 | 韓国 | △2-2 | 竹腰重丸 | ワールドカップ予選 |
2. | 1954年05月01日 | マニラ | インドネシア | ●3-5 | アジア大会 | ||
3. | 1954年05月03日 | マニラ | インド | ●2-3 | アジア大会 |