永持明徳

永持 明徳
ながもち あきのり
生誕 1845年
日本の旗 上総国
死没 1904年
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1870 - 1888
最終階級 陸軍砲兵中佐
除隊後 徳川育英黌長、東京市会議員
テンプレートを表示

永持 明徳(ながもち あきのり、1845年(弘化2年) – 1904年明治37年))は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍砲兵中佐。退官後は、徳川育英黌(現東京農業大学)の初代黌長、東京市会議員などを務めた。

経歴

[編集]

上総国の生まれ。旧名五郎次。幕臣永持亨次郎の養子となり、幕末には長崎で蘭学を学び、文久の第一次遣欧使節には伯父柴田貞太郎に従い渡欧。その後大砲差図役頭取となる。鳥羽・伏見の戦いで負傷し、沼津兵学校に三等教授方として務めた後、明治3年大阪兵学寮に転出。1873年(明治6年)11月近衛砲兵第一大隊長に任ぜられた[1]1874年(明治7年)2月に陸軍少佐に昇進[2]。以後、陸軍省第三局第一課長・砲兵局人事課長を歴任し、1881年(明治14年)3月陸軍教導団次長に就任[3]し、同年9月に陸軍砲兵中佐に昇進[4]1884年(明治17年)10月7日免職となり[5]1888年(明治21年)3月13日に依願退職を仰せ付けられ、同日付で後備軍編入となった[6]。その後、1891年(明治24年)3月に徳川育英会育英黌が設立された際に初代黌長に就任した。

栄典

[編集]

親族

[編集]

脚注

[編集]