沖山光利
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都文京区 |
生年月日 | 1933年5月1日 |
没年月日 | 2012年5月23日(79歳没) |
身長 体重 | 172 cm 68 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1956年 |
初出場 | 1956年3月21日 |
最終出場 | 1960年10月14日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について |
沖山 光利(おきやま てるとし、1933年5月1日 - 2012年5月23日)は、東京都出身で、大洋ホエールズに在籍したプロ野球選手(外野手)である。1960年の大洋V1戦士の1人。
来歴・人物
[編集]明治高校では外野手として、甲子園に3回出場した。2年生時の1950年春の選抜では1年上のエース・大崎三男を擁し、1回戦で彦根高を降すが、準々決勝で北野高に敗退[1]。同年夏の選手権は2回戦(初戦)で北海高に敗れる[2]。翌年の春の選抜では準決勝まで進むが、藤尾茂、中田昌宏らを擁した鳴尾高に大敗した[1]。
卒業後は明治大学に進学。東京六大学野球リーグではエース秋山登を擁し、1953年秋季リーグの戦後初優勝を含め、在学中に3度の優勝を経験。1954年、1955年の全日本大学野球選手権で連続優勝を果たす。同年の第2回アジア野球選手権大会日本代表として、日本チームの優勝に貢献。リーグ通算95試合出場、323打数86安打、打率.266、1本塁打、23打点、ベストナイン(外野手)2回。
1956年に大洋ホエールズに入団。秋山、土井淳、岩岡保宏、黒木弘重らと同期入団し「明大五人衆」と呼ばれ話題になった。俊足巧打を買われ、開幕から左翼手、一番打者として起用される。同年は規定打席(28位、打率.202)に達し、19盗塁を記録。6月6日の対阪神戦で小山正明と対戦。初回先頭打者でヒットを打つ。しかし小山はその後の打者27人を完璧に抑えて完封し「沖山に打たれなければ完全試合だった」と悔しがった。
翌1957年は序盤に故障欠場するが復活。その後も勝負強い打撃で活躍するが、1960年のオープン戦で犠打を失敗し併殺打に倒れると、三原脩監督が激怒。開幕以降の先発出場はわずか1試合と、2ヶ月近く起用されなくなる。5月5日の巨人戦でようやく代打起用され逆転タイムリーヒットを放ち、これ以後は左翼手として返り咲いた。沖山は「打席に立った時、足の震えが止まらなかった」と後に語っているが、これは当時6年連続最下位だった大洋のチーム体質を変える為に、三原監督が取った作戦だったと言われている。同年はチャンスメーカーとしてリーグ初優勝に貢献。大毎との日本シリーズは第2戦のみの出場で、3打数1安打とあまり活躍の場はなかった。同年限りで現役を引退。
引退後は30年以上にわたって二軍コーチ、二軍監督、球団フロントを歴任し、1996年に退団するまで大洋・横浜一筋のプロ野球人生だった。
ファームのコーチ時代、狙った所に正確に打つノックの腕は天下一品と言われていた。田代富雄のニックネーム「オバQ」および高木由一のニックネーム「とっつぁん」は、コーチ時代の沖山が付けたもの[3]。山崎賢一には「番長」[4]というニックネームを付けているが、プロ入り前の山崎のニックネームは「組長」であり、社会に出ればランクが下がるだろうと考え付けたものである[4]。後に三浦大輔へ「ハマの番長」として受け継がれた。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
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1956 | 大洋 | 114 | 435 | 387 | 35 | 78 | 11 | 3 | 3 | 104 | 13 | 19 | 10 | 6 | 2 | 40 | 0 | 0 | 69 | 1 | .202 | .276 | .269 | .545 |
1957 | 93 | 297 | 264 | 32 | 66 | 12 | 1 | 0 | 80 | 9 | 9 | 5 | 9 | 0 | 23 | 0 | 1 | 40 | 5 | .250 | .313 | .303 | .616 | |
1958 | 124 | 517 | 472 | 38 | 103 | 17 | 1 | 2 | 128 | 18 | 11 | 7 | 5 | 1 | 36 | 3 | 3 | 56 | 6 | .218 | .278 | .271 | .549 | |
1959 | 84 | 200 | 179 | 14 | 30 | 7 | 0 | 2 | 43 | 12 | 6 | 4 | 5 | 2 | 14 | 0 | 0 | 23 | 1 | .168 | .228 | .240 | .468 | |
1960 | 107 | 282 | 242 | 33 | 59 | 8 | 4 | 1 | 78 | 16 | 17 | 3 | 11 | 2 | 27 | 0 | 0 | 54 | 2 | .244 | .320 | .322 | .642 | |
通算:5年 | 522 | 1731 | 1544 | 152 | 336 | 55 | 9 | 8 | 433 | 68 | 62 | 29 | 36 | 7 | 140 | 3 | 4 | 242 | 15 | .218 | .284 | .280 | .565 |
記録
[編集]背番号
[編集]- 21 (1956年 - 1960年)
- 41 (1961年 - 1980年)
- 82 (1981年)
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 沖山光利 - NPB.jp 日本野球機構