河内 (戦艦)

河内
基本情報
建造所 横須賀海軍工廠[1]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 戦艦[2]
級名 (河内型)[注釈 1]
母港 横須賀[3]
艦歴
計画 明治40年(1907年)度[4]補充艦艇費[5]
発注 1907年6月22日製造訓令[1]
起工 1909年4月1日[6]
進水 1910年10月15日[7]
竣工 1912年3月31日[8]
最期 1918年7月12日爆沈[4]
除籍 1918年9月21日[3]
その後 現場で解体[4]
要目
常備排水量 計画 20,800英トン[9]
20,823英トン[10][注釈 2]
全長 526 ftin (160.32 m)[注釈 3]
垂線間長 500 ft 0 in (152.40 m)[10]
最大幅 84 ft 3 in (25.68 m)[10]
深さ 44 ft 0 in (13.41 m)[11]
吃水 27 ft 0 in (8.23 m)[10]
ボイラー 宮原式混焼缶 単面8基、両面8基[12]
主機 カーチス式直結タービン2基[11]
推進 2軸 x 245rpm[11]
出力 計画 25,000shp[9]
実際 30,399shp[9][12]
速力 計画 20ノット[9]
実際 21.024ノット[9]
燃料 石炭 2,300トン、重油 400トン[11]
乗員 竣工時定員 999名[13]
兵装 新造時[14]
50口径毘式30cm連装砲2基4門
45口径毘式30cm連装砲4基8門
45口径四一式15cm単装砲10門
40口径四一式12cm単装砲8門
40口径四一式8cm単装砲8門
45cm舷側水中発射管4門、45cm艦尾水中発射管1門[15]
装甲 舷側 12in(305mm) - 4in(102mm)KC鋼[16]
甲板 1.2in(30mm)[16] または 45lbs(28.6mm),30lbs(19.1mm)NS鋼[17]
砲塔 11in(279mm)[16]
司令塔 10in(254mm)[16]
その他 信号符字:GQHM(竣工時)[18]
(無線)略符号:GKC(竣工時)[19][20]
(無線)略符号:JGL(1913年1月1日-)[21]
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河内(かわち/かはち)は、日本海軍戦艦[22]。艦名は、幕末期の汽船「河内丸」に続いて2代目で[22]、「河内国」に由来する[23][22][24]

概要

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河内型戦艦1番艦である。姉妹艦は「摂津」(旧字体では攝津)[22]。河内型戦艦は、日本海軍が最初に保有した弩級戦艦である[25][26]。長官公室には楠木正成(大楠公)の像が飾られていた[27]1918年(大正7年)7月12日、火薬庫爆発事故により爆沈した[28][29]

艦型

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艦型は薩摩型戦艦安芸の拡大発展型で、30cm(12インチ)連装砲塔6基12門を装備するが、砲塔の全てが船体の中心線上に配置されていない[30][31]。このため片舷に向けられる主砲は8門であった[32]。また当時の予算の都合と軍令部長東郷平八郎の意見により、艦前後のみ50口径12インチ連装砲塔とし、中央部の4基は45口径12インチ連装砲塔とした[33]

同型艦摂津との識別点として河内の艦首は直線型艦首であり、一方摂津のそれはクリッパー型だった[34]。摂津の艦首をクリッパー型に変更すると決定した時、河内は既に工事が進行していたため変更は困難で、直線艦首のままとされた[35][注釈 4]。また主機であるカーチス式タービンは川崎造船所で製造された[36][37]。安芸に対して機関部を強化して約1,000馬力増大しており、排水量は1,000~1,500トン増えたにもかかわらず「安芸」と同等の速力を維持できた[38]

艦歴

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建造

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日露戦争直後の明治40年度の計画により建造された戦艦2隻のうちの1隻[39]。計画時の名称は伊号戦艦(伊號戦艦)[1]1909年(明治42年)2月12日、伊号戦艦を部内限りで河内と命名する[40]。4月1日[41]横須賀海軍工廠にて午前8時20分に起工(キール据え付け)した[6]。9月2日、裕仁親王(のちの昭和天皇。当時8歳)、雍仁親王宣仁親王上村彦之丞横鎮長官等の案内で横須賀軍港を見学、建造中の河内を訪れた[42]1910年(明治43年)10月15日[43]、午後2時8分に河内は進水した[7][44]。同日正式に河内と命名された[45][44]。進水式には明治天皇が臨席した[46][44]1912年(明治45年)3月31日、河内が竣工し[22]、海軍に引き渡された[8]。起工から竣工まで約3年をかけたことになる[43]。河内建造の予算は明治44年度までで[47]、竣工はその期限ぎりぎりだった。

明治45年/大正元年(1912年)

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竣工翌日の4月1日附で第一艦隊に編入[48]、整備や補給をした後の4月22日に作業地へ向け出港した[49]。5月24日、第一艦隊旗艦を香取から河内に変更[50]

同年(大正元年)11月10日、大正天皇皇太子(のち昭和天皇。当時11歳)が第一艦隊に行啓する[51][52]。午前11時、皇太子は御召艦平戸から河内(第一艦隊旗艦、出羽重遠司令長官)に乗艦、第一艦隊赴任の挨拶をおこなう[52]。皇太子は同年9月9日、皇族身位令第17条により近衛歩兵第1連隊附及び第一艦隊附の陸海軍少尉に任官していた。正午、皇太子は河内から平戸に戻った[52]

11月12日、横浜沖合で観艦式がおこなわれる[53][54]。観艦式終了後、河内には東伏見宮依仁親王が派遣された[54]

大正2年(1913年)

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1913年(大正2年)2月4日、河内の後部砲塔上に(比叡用の[55])110cm探照灯を臨時装備し実用実験をするよう訓令が出され[56]、同年中はその実験を行った[57]。探照灯は11月27日撤去の訓令が出された[58]

2月10日、河内(旗艦)、鞍馬、摂津、敷島、生駒、鹿島の6隻は打狗を出港し[59][60]、油頭、厦門に寄港し[61]、17日馬公に帰着[60]。21日、河内(旗艦)、摂津、敷島、生駒、鹿島の5隻は馬公を出港し[62](鹿島は馬公に戻り、後に佐世保ヘ[63])、4隻は舟山島に停泊し[64]、28日佐世保に帰着した[60]

4月11日、河内(旗艦)、摂津、敷島、生駒の4隻は仁川を出港[65]、北清方面を航海し[60] 15日大連[66]、16日旅順に寄港[67]、19日旅順を出港し[68]、22日鎮海に帰着した[60]

7月14日、第一艦隊旗艦を敷島へ変更し[69]、22日河内に復帰[70]

10月11日、土崎港雄物川河口で上陸員を乗せた河内の第1カッターが転覆した[71]。天候に問題は無かったが[71]、後部から波を受け艇尾が持ち上がり舳先が左を向いた所に更に後方から波が寄せ、右舷に回転し転覆した[72]。河内の他のカッターや敷島のカッターなどで直ちに救助が行われたが[73]、乗艇54名中[74]泳げない者を中心に7名死亡、1名行方不明(21日に死体発見[75])となった[76]

11月10日、横須賀沖の東京湾で恒例観艦式が行われた[77]。この観艦式は日本海軍初めての移動式観艦式で[77]、第一艦隊旗艦だった河内は[78]艦隊の先頭で陣形運動の展示を行い[79]、受閲開場では第1列の1隻目の位置に停泊した[80]

大正3年(1914年)

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1913年12月1日、第一艦隊から除かれ[81]、旗艦は河内から金剛へ変更された[82]。河内は横須賀鎮守府艦隊に所属、1914年(大正3年)3月19日からは鎮守府艦隊旗艦となる予定だった[83]

第一次世界大戦

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8月10日、第一艦隊に編入された[84]。8月に日本がドイツに宣戦布告、第一次世界大戦に参戦すると河内も8月から9月にかけて東シナ海黄海の警備に従事した[4]。8月29日河内は神通丸と佐世保を出港[85]、9月4日佐世保に帰着した[60]。9月12日、河内は摂津(旗艦)、薩摩、安藝、巡洋艦、駆逐艦などの第一艦隊の艦と再び佐世保を出港[86]、18日佐世保に帰着した[60]

大正4年(1915年)

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1915年(大正4年)9月、楠木正成(大楠公)座像と四条畷神社真景額寄贈の申し出があり、受理される[87][88]。9月5日、大楠公像は横須賀停泊中の河内に安置された[89]

10月18日から11月1日まで第7回海軍大演習が行われ、河内の属する第一艦隊は青軍に参加した[90]。12月4日に横浜沖で特別観艦式が行われ、河内は第1列の3隻目に停泊した[91]

大正5年(1916年)

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1915年12月16日、第一艦隊旗艦を摂津から河内に変更[92]1916年(大正5年)2月22日、第一艦隊旗艦を河内から扶桑へ変更した[93]

10月25日に横浜沖の東京湾で(第2回)恒例観艦式が行われ[94]、河内は第一艦隊第一戦隊の4番艦として機動運動の後[95]、第1列の4隻目に停泊した[96]

大正6年(1917年)

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1916年12月1日、第一艦隊第一戦隊から除かれた[97]。大正6年度は予備艦として横須賀軍港に在泊した[98]

1917年(大正6年)1月14日、横須賀軍港には河内以下日本海軍の艦艇多数(筑波、河内、生駒榛名金剛津軽山城等)が所在だった[99]。同日午後3時15分、横須賀停泊中の「筑波」は火薬庫爆発事故により爆沈[100][101]。河内・生駒・榛名・金剛等在泊各艦は救助作業に従事した[100]

1月17日、海軍砲術学校の教務のための砲塔使用が訓令され[102]、以降、河内が予備艦の間は継続された[103]

大正6年度の恒例観艦式で河内が御召艦に予定された[104]が、この年に観艦式は行われなかった[105]

大正7年(1918年)

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1917年12月1日、第一艦隊第二戦隊に編入、第二戦隊は河内と摂津の2隻編制となった[106][107]。同日附で巡洋戦艦金剛副長等を歴任した正木義太大佐が河内艦長に任命される[108]。12月2日、第二戦隊旗艦を鹿島(第三艦隊第五戦隊へ転出済)から河内に変更[109]。当時の河内は第三予備艦から復帰したばかりで、寄せ集めの乗員の練度・素行共に問題があった[108]1918年(大正7年)3月12日、第二戦隊旗艦を河内から摂津へ変更[110]

喪失

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7月12日、徳山湾には第一艦隊各艦[111](山城扶桑伊勢摂津、河内、利根、他駆逐艦)が停泊していた[29][112]。天候は不良、暴風雨で視界は極めて悪かった[113][114]

15時51分頃[115]、右舷1番砲塔付近で[116]小爆発、続いて大爆発が起こった[115]。艦内中甲板に高温のガスが走り、1番砲と3本の煙突から火焔が吹き出て、前部マストが倒壊した[115]。右舷舷側が約120フィートに渡り破壊され[117]、艦は右舷に傾斜、その後急速に回転し約4分で転覆[115]、傾斜120度(8月中旬で166.5度[118])で水深約12mの海底に着底した[111]。爆発の原因は1番砲塔火薬庫にあった常用期限から5年過ぎた火薬の発火と後に推測されている[119]。当時、河内の乗員は1,035名だった(傭人を除く)[120]

この事故により621名が殉職[121][122](7月18日午後8時現在で傭人9名を含む[123]、その後7月20日に一等水兵1名死亡[124])、正木(河内艦長)は戦艦山城に救助された[122][114]。皇太子(のち昭和天皇)は侍従武官及川古志郎海軍少佐を慰問のために派遣した[125]。7月23日、2隻(摂津、河内)は第二戦隊から除かれ、健在の摂津は第一戦隊へ転出[126]、第二戦隊は8月19日までは在役艦が無い書類上だけの隊となる[127]。復旧は断念され、9月21日に除籍[4][128]。艦艇類別表からも削除された[129]

その後、河内の船体は現場で解体された[4][130]。解体は他の3海軍工廠の応援を受けて呉海軍工廠が行い、使用可能な兵器、機関、艤装品などを引き揚げ、解体した船体(鋼材)は呉海軍工廠での製鋼原料とする計画だった[131]楠木正成の座像や四條畷神社真景画も回収された[132][133]。ただし船体が泥に埋まっていたため、約30パーセントの部材が放置された[134]

以下、河内沈没後の動きを記す。

  • 1918年7月19日 - 河内事務所を山城から周防へ移転[135]
    • 7月21日 - 河内遭難者合同葬儀を(第1練兵場[136])で執行[137][138]
    • 7月26日 - 河内爆沈査問委員会事務所を周防艦内に設置[139]。横須賀で追弔会を執行[140]
    • 8月5日 - 河内爆沈査問委員会事務所を呉鎮守府内に移転[141]
    • 8月21日 - 河内事務所を徳山町内の無量寺に移転[142]
    • 8月23日 - 河内引揚方法調査会事務所を呉海軍港務部へ移転[143]
    • 9月15日 - 正木義太(河内艦長)の体調悪化、入院療養[122]
    • 9月21日 - 河内、除籍[122]
    • 9月30日 - 河内事務所の残務を徳山町無量寺旧河内事務所で行う[144]
    • 10月3日 - 河内引揚方法調査委員会を呉海軍工廠へ引継ぎ解散[145]
    • 10月22日 - 徳山町無量寺の事務所を閉鎖し、事務を徳山町内呉海軍工廠出張員事務所で行う[146]
  • 1919年1月31日 - 河内の残務を終了し、事務所閉鎖[147]

艦長

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※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

慰霊碑

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帝國軍艦河内殉難者英霊之碑の除幕式

1919年(大正8年)、山口県富田町の町長が発起人となり黒髪島と仙島の間の砂州(干渡)に「帝國軍艦河内殉難者英霊之碑」が建立され、事故から1年になる7月12日に除幕式が行われた[148][149]。この日は徳山湾に第一艦隊が集結[148]。式には山下大将中山知事などが参列し[150]、余興で下士官兵による相撲が行われた[151]

仙島干渡にある慰霊碑は10m近い高さがあり、その奥に納骨堂がある[149]。第二次大戦後、地元の仏教団が福川の高州漁港から船で海を渡って毎年法要を営んでいる[149]。仙島には船着場がないため、天候が悪いときは真福寺で法要が営まれている[149]。70周忌には海上自衛隊も参列して海上慰霊祭が行われた[149]

脚注

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注釈

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  1. ^ 公的な分類(艦艇類別等級)では、まだ艦級(艦艇類別等級表の艦(艇)型欄)が制定されていない。公的に戦艦の艦型が定められたのは大正15年11月29日になる。#海軍制度沿革8(1971)pp.72-74、大正元年8月28日(達12)艦艇類別等級、同pp.88-92、大正15年11月29日(内令238)艦艇類別等級による。
  2. ^ #軍艦基本計画資料Sheet56に(常備)排水量21,833英トン(またはトン)の記載もある。
  3. ^ #日本の戦艦(上)p.107。ただし「河内」「摂津」共に同一長としている。
  4. ^ #海軍艦艇史1p.151では「あるいは当時、戦艦は一見して識別できるものとされていたか、横鎮所属艦として艦隊旗艦の機会多く、その艦容のためか、おそらく両方の理由と思われる。(砲艦最上と安宅に同様の例がある)。」としている。

出典

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  1. ^ a b c #M45-T1公文備考27/軍艦河内、摂津製造の件(1)画像5-7、官房機密第二五七號
  2. ^ #海軍制度沿革8(1971)p.71、明治四十三年十月十日(達一三九) 艦艇類別等級別表中戦艦ノ欄内「安藝」ノ次ニ「河内」ヲ加フ(原文は縦書き)
  3. ^ a b #大正7年達/9月画像46『達第百六十九號 横須賀鎮守府在籍 軍艦 河内 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 大正七年九月二十一日 海軍大臣 加藤友三郎』
  4. ^ a b c d e f #日本海軍全艦艇史中川努「主要艦艇艦歴表」p.2
  5. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.229-231
  6. ^ a b #M45-T1公文備考27/軍艦河内、摂津製造の件(1)画像25
  7. ^ a b #M45-T1公文備考27/軍艦河内、摂津製造の件(7)画像6-7
  8. ^ a b #M45-T1公文備考27/軍艦河内、摂津製造の件(7)画像27-31
  9. ^ a b c d e #帝国海軍機関史別冊、表9
  10. ^ a b c d #海軍造船技術概要p.226
  11. ^ a b c d #昭和造船史1pp.776-777
  12. ^ a b #帝国海軍機関史下巻p.400
  13. ^ #海軍制度沿革巻十の1p.505、明治四十三年十月十五日(内令一八九)。将校同相当官44人、兵曹長同相当官23人、下士229人、卒703人。
  14. ^ #海軍艦艇史1p.420
  15. ^ #大正7年公文備考40/査定会(5)画像24
  16. ^ a b c d #日本の戦艦(上)p.220
  17. ^ #海軍造船技術概要p.222、主力艦防御計画ノ変遷図、「河内」の船体断面図で上甲板は30lbs(30/40in)、下甲板が45lbs(45/40in)のNS鋼 となっている。
  18. ^ #明治44年達/10月 画像1『達第百九號 軍艦河内外四隻ニ左ノ通信號符字ヲ點付ス 明治四十四年十月三日 海軍大臣 男爵齋藤實 信號符字 艦名 GQHM 河内 GQHN 攝津 GQHP 筑摩 GQHR 矢矧 GQHS 平戸』
  19. ^ #明治44年達/6月画像1-2、達第65号
  20. ^ #大正元年達/10月画像41、達第44号
  21. ^ #大正元年達/12月画像6,7、達第72号
  22. ^ a b c d e #幕末以降帝国軍艦写真と史実第88コマ(原本138頁)『河内(かはち) 艦種戰艦 二檣(三脚式)(信號用) 艦名考國名にして畿内五箇國の一に採る。
    艦歴明治42年4月1日起工、同45年3月31日竣工、攝津(二代)と姉妹艦なり。大正三年乃至九年戰役(日獨)從軍(第一艦隊第一戰隊、艦長海軍大佐町田駒次郎):同7年9月17日徳山沖に於て爆沈。
    (備考)幕末に「河内」と名くる汽船あり、明治元年12月米國人より購入したるものして長さ138呎、幅29呎、原名「カンキーナ」、後「河内」と命名す、其製造所竣工年月等不明、明治2年8月岡山藩に管せしむ、其後の艦歴亦詳ならず。
    ―要目― 長500呎/幅84呎/喫水28呎/排水量20,800噸/機關 カーチス式タルビン3軸 宮原式罐16臺/馬力25,000/速力20/乗組人員960/船材 鋼(甲帶12吋)/兵装 12吋砲12/6吋砲10/4.7吋砲8/12听砲16/機關砲4/發射管5/起工 明治42-4-1/進水 同43-10-15/竣工 45-3-31/建造所 横須賀工廠』
  23. ^ #日本海軍艦船名考pp.8-9
  24. ^ #献納品(1)pp.47-49『軍艦河内記念品獻納の記』
  25. ^ 決定版、日本の戦艦 2010, p. 50a日本初のド級艦「河内」型
  26. ^ 帝国軍艦発達 1924, p. 3「(前略)次の戰艦は河内、攝津(明治四十五年竣工)でありまして主砲として十二吋十二門副砲として六吋砲十門・七吋砲八門速力二〇節と云ふ威力を有し防禦も又敷島以降安藝に至るまでは水線甲鐵の厚さ九吋でありましたが本艦に至って十二吋になりました 尤防禦配置が異なって居る結果防禦力が九と十二の比になって居るとは申せませんが前よりは優って居ることは事實であります 此二艦が我海軍に於ける最初の純然たる弩級艦であります(以下略)」
  27. ^ #正木義太傳195-196頁『河内艦長時代 大佐』
  28. ^ #災害篇コマ139(原本266頁)『弩級戰艦河内爆沈す(大正七年七月十三日夕刊時事新報)』
  29. ^ a b 大正7年7月13日(土)海軍公報 第1755号 p.22」 アジア歴史資料センター Ref.C12070258600 『○軍艦沈没 軍艦河内ハ徳山灣碇泊中七月十二日午後三時五十七分中央部ニ爆發ヲ起シ約四分ノ後沈没セリ』
  30. ^ 決定版、日本の戦艦 2010, p. 50b単一口径砲で統一された主砲
  31. ^ 帝国軍艦発達 1937, p. 01「(前略)次で明治四十五年に攝津、河内が出來12吋砲12門で巨砲單一主義の最初の艦でありますが、同時代の英のドレッドノートの様に砲塔を中心線上に背負ひ式にはなって居りません。(以下略)」
  32. ^ 帝国軍艦発達 1924, p. 4「(前略)此英國の「ドレッドノート」にては主砲十門の中六門は艦の中心線上に据付けられ左右兩舷に打てる様になって居り残り四門丈が片舷二門づつ配備されて居りまして總數十門中八門迄は片舷に打てる様になって居ります 河内級にては圖面にて御覧の通り砲數十二門あるに拘はらず片舷に打てる砲は矢張り八門丈でありました 此には種々理由もありましたのですが今より考へれば少しく割の惡い配置であった様に思はれます 其後の弩級戰艦は日、英、米とも主砲は其全部が兩舷に打てる様に配備されて居ります 茲に河内級で自慢してもよかろうと思ひますことは「ドレッドノート」では中口經砲を廢しましたのですが河内級では依然之を存して置きましたと云ふ點であります 英國海軍でも後に至り驅逐艦を撃破するには小口經砲丈では滿足出來ないと見へまして我海軍の例に倣ひ再び中口經砲を備ふることになりました。(以下略)」
  33. ^ 決定版、日本の戦艦 2010, pp. 51–522種の砲身混載の問題について
  34. ^ 決定版、日本の戦艦 2010, p. 53a「河内」と「摂津」の相違点
  35. ^ #M45-T1公文備考27/軍艦河内、摂津製造の件(3)画像34-35、明治42年10月9日官房機密第3415号「軍艦摂津艦首改正ノ件 軍艦摂津艦首部別?図面ノ通リ改正スヘシ 右訓令ス(別?図面?葉添)(終) 備考 軍艦河内ハ工事進行上改正困難ニ付同艦ハ原計画ノ通竣工セシメ比較研究ヲナスコト然ルヘシト認ム」
  36. ^ #帝国海軍機関史下巻p.455(三九三頁)
  37. ^ #M45-T1公文備考27/軍艦河内、摂津製造の件(7)画像46-47
  38. ^ 決定版、日本の戦艦 2010, p. 52a「河内」型の防御配置と機関形式
  39. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.224-225
  40. ^ 明治42年2月12日付 内令第22号。
  41. ^ 決定版、日本の戦艦 2010, p. 52b遅れてやってきたド級艦「河内」
  42. ^ #昭和天皇実録一巻、359-360頁「(明治四十二年九月)二日木曜日(横須賀鎮守府にお成り)午前八時五十分、雍仁親王・宣仁親王と共に御出門になり、逗子停車場より列車にて横須賀に向かわれる。(略)午後、横須賀海軍工廠にお成りになり、工廠長和田賢介の案内により廠内各工場を御通覧、建造中の軍艦河内では艦体へ御自ら釘をお打ちになる。(以下略)」
  43. ^ a b 決定版、日本の戦艦 2010, p. 52c.
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    當日午後二時 陛下式場ニ臨御アラセラレ同時海軍大臣、横須賀鎮守府司令長官、海軍艦政本部長、海軍省軍務局長、其他關係者参列ス 是ニ於テ横須賀海軍工廠長ヨリ進水ノ準備整頓セル旨ヲ司令長官ニ報告シ司令長官ハ之ヲ海軍大臣ニ報告ス乃チ海軍大臣ハ 陛下ニ奏上シタル後本艦ノ前面ニ立チ命名書ヲ朗讀シ了テ之ヲ司令長官ニ授ク司令長官ハ之ヲ受ケ工廠長ヲシテ豫定ノ進水手續ヲ行ハシメ艦體滑動ヲ始ムルトキ海軍軍樂隊ハ愛國行進曲ヲ奏シ午後二時八分艦體全ク海上ニ浮泛シ茲ニ滞リナク式ヲ結了セリ』
  45. ^ 明治43年10月15日付 達第138号。
  46. ^ 明治43年10月18日官報第8198号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4『○行幸 天皇陛下ハ御豫定ノ如ク本月十五日横須賀軍港ニ於テ軍艦河内進水式擧行ニ付キ午前九時二十五分御出門同九時五十分新橋停車場御發車同港ヘ行幸午後五時二十五分新橋停車場御箸車同五時五十分還幸アラセラレタリ』
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  55. ^ #大正2年公文備考21/試験(1)画像9-10、大正2年2月4日官房第320号の2
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  89. ^ #献納品(1)pp.46-47『軍艦河内へ大楠公坐像小楠公社全景刺繍扁額を同艦祭神として寄贈したる事業顛末報告書』
  90. ^ #衣島(2012)観艦式11p.118、上写真の解説
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  99. ^ 大正6年1月13日(土)海軍公報 第1311号 p.15」 アジア歴史資料センター Ref.C12070254200 『○艦船所在○一月十三日午前十時調【横須賀】(旗艦)榛名▲、河内、生駒、若宮、(司令)彌生、吹雪、霰、有明、(司令)浦風、海風、山風、金剛、満州、周防▲、筑波、津輕、音羽▲、橋立▲、千早、朝日▲、山城、武藏▲、松江、(司令)不知火▲、陽炎▲、叢雲▲、夕霧▲、(司令)樺、桐、櫻、橘、(司令)初霜、如月、神風、響、(司令)白露、夕暮▲、夕立、三日月、薄雲、山彦、(司令)雉▲、鷗▲、鴻▲、白鷹、高崎、栗橋○、鹿兒島丸』
  100. ^ a b #災害篇コマ136-137『筑波艦沈没す(大正六年一月十五日東京朝日新聞)十四日午後三時十五分横須賀軍港第二區に停泊中なる軍艦筑波の火藥庫轟然たる大音響を立てて爆發し同時に非常なる震動を爲し、筑波の舷首に於て茶褐色の爆煙高く揚り、上甲板上の乗組員は震動の爲海中に振り落され爆煙は次第に高く揚りて、約百米に達したるが是と同時に艦は大破して午後三時十八分に至るや艦體の後半を現出し、約三十度の傾斜を爲して三時三十分全部沈没せり。大檣は挫折し、海上には後部約一丈餘上甲板を表はし居るのみ、當日は日曜日にて六百餘名の乗組員に半舷上陸を許したれば爆發の當時艦内に在りしは、約三百四十名にて爆沈の際海上に刎ね飛ばされた生存者も悉く海中に漂ひて惨状名状するに能はず、折柄港内には軍艦津輕を初め、河内、生駒、榛名、金剛、其他各軍艦、驅逐艇碇泊し居たるが、急を見るより何れも直に艦載ランチ、カツターを出して救助に着手せるが其混在は宛ら戰場の如く、同時に上陸員全部の非常招集を行ひ、百方救護と手當に奔走し居れるが死傷者は今尚取調べ中なり。』
  101. ^ 大正6年1月15日(月)海軍公報 第1312号 p.16」 アジア歴史資料センター Ref.C12070252300 『○軍艦沈没 軍艦筑摩昨十四日午後三時十五分横須賀軍港内ニ於テ前部火薬庫爆發シ沈没セリ(左舷十一度傾斜、艦橋以上水面ニ露出)|○筑波死傷者 死者 中尉谷口諶一、下士卒七/行衛不明者 機關兵曹長月岡安太郎、上等兵曹時田久七、仝山下源治、船匠師鈴木芳太郎、下士卒一五二』
  102. ^ #大正6年公文備考23/任務(1)画像21、大正6年11月17日官房機密第82号「其ノ麾下軍艦河内ニ於テ海軍砲術学校長ノ協議ニ応シ必要ノ期間教務ノ為砲塔使用方取計ハレムヘシ 右訓令ス」
  103. ^ #大正6年公文備考21/使用画像9-21、軍務機密第191号他
  104. ^ #大正6年公文備考20/装備、装置及兵装(1)画像36-37、大正6年4月19日官房第1237号「恒例観艦式御召艦ニ関スル件 本年行ハルヘキ恒例観艦式ノ御召艦ヲ軍艦河内ト豫定シ同艦ニ就キ調査ノ上豫テ相当ノ準備方可然ト認ムルモノハ逐次之ヲ施行スコトトト致可然哉 右仰高裁 追テ豫備御召艦ハ前年通軍艦生駒ノ豫定トス(終)」
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  113. ^ #災害篇コマ139(原本267頁)『艦は逆轉して船底を現はす(七月十四同上)』
  114. ^ a b #災害篇コマ140(原本269頁)『正木河内艦長爆沈の状を語る(同上)○暴風雨で傳令達せず―波間より軍艦山城に救助さる
    爆沈當時の模様を河内艦長正木義太大佐は記者に語る「爆沈する時にはシュウと恰度水雷を發射する時の様な音響がした、次いで少し艦が傾きかけたと思つたから上甲板に上らんとしたと同時に艦體がいよいよ傾斜して甲板に上つた時は黒煙と黄煙が朦々として立昇り、火藥庫に火が移ったと覺ったので直ひ火夫に對して汽笛を鳴らさせやうといしたが、當時は恰も暴風雨前で波浪高く號令は達せず、詮方なく傳令をして此の旨を命じやうとし是亦喇叭手の手許へ届かず、時々刻々船は危險に迫り間一髪となつた。副長、砲術長等は自分に早く避難せよと申告したが、艦長たる自分としてどうして、避難して居られやう、斷然踏み止まつてゐやうと思ってゐる間もなく、傾斜いよいよ急となり、自分は波間に投出されて仕舞った、そして軍艦山城に救助されたのである、目下御覧の通り行方不明者の死體捜索で忙殺されて居る」(呉十四日特電)』
  115. ^ a b c d #大正7年公文備考40/査定会(1)画像6-9、軍艦河内爆沈事件査定書、一.事実
  116. ^ #大正7年公文備考40/査定会(3)画像11、第1回報告、一、軍艦河内爆沈に関する一般
  117. ^ #大正7年公文備考40/査定会(1)画像13、軍艦河内爆沈事件査定書、第二艦の破損の状況、(7)内外側鈑、(イ)「舷側破損区域(助材63番より123番長約120呎)に渉る内側鈑は概ね大破し弾火薬庫側は亡失す」
  118. ^ #大正7年公文備考38/救難及引揚1(4)画像59
  119. ^ #大正7年公文備考40/査定会(3)画像1-2、「三 結論」
  120. ^ #大正7年公文備考38/救難、引揚2止(4)画像16、河内乗員表
  121. ^ 大正7年7月22日東京朝日新聞朝刊 5頁。
  122. ^ a b c d e #正木義太傳111-112頁
  123. ^ #大正7年公文備考38/救難、引揚2止(4)画像18
  124. ^ #大正7年公文備考38/救難、引揚2止(4)画像17,51
  125. ^ #昭和天皇実録二巻392頁『(大正七年七月)十二日 金曜日(軍艦河内の爆沈)午前、東宮御学問所総裁東郷平八郎参殿につき、謁を賜う。雍仁親王・宣仁親王参殿につき、御昼餐を御会食になり、午後は御一緒に活動写真を御覧になる。この日、徳山湾碇泊中の第一艦隊所属の軍艦河内は、原因不明の爆発により転覆沈没し、七百名以上の死傷者を出す。(以下略)侍従武官及川古志郎、16日帰京・17日出発・23日帰京(死傷者慰問・下賜金伝達のため)』
  126. ^ 大正7年7月23日付 内令第239号。
  127. ^ 大正7年8月20日付 内令第279号。
  128. ^ 決定版、日本の戦艦 2010, p. 53b明暗を分けた「河内」と「摂津」
  129. ^ #海軍制度沿革8(1971)p.77、大正七年九月二十一日(達一七〇) 艦艇類別等級中「河内、」ヲ削ル(原文は縦書き)
  130. ^ 決定版、日本の戦艦 2010, p. 53c.
  131. ^ #大正6年公文備考50/雑款(4)画像13-19、大正7年艦政船機密第178号「旧軍艦河内処理に関する件」
  132. ^ #献納品(1)pp.7-8『大楠公座像下附願』
  133. ^ #献納品(1)pp.19-20『河内備付大楠公坐像及小楠公 四條畷神社眞景額面ニ關スル件』
  134. ^ #海軍艦艇史1p.158、No.1200の写真解説
  135. ^ 大正7年7月23日付 海軍公報(部外秘)第1763号。
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  137. ^ 大正7年7月15日(月)海軍公報 第1756号 p.24」 アジア歴史資料センター Ref.C12070258600 『○葬儀 軍艦河内遭難死者ノ合同葬儀ヲ七月二十一日午後一時呉ニ於テ執行ス(河内艦長)』
  138. ^ #災害篇コマ141(原本270頁)『六百の英靈を葬むる(七月十二日 同上)―水漬く屍の悲曲― =荘嚴又た悲壮=河内遭難者の葬儀 =涙の正木大佐=三萬の参列者泣く 軍艦河内受難者飯島機關長外六百十三名の海軍葬葬列に據る前代未聞の大葬儀は、二十一日午後一時途中葬列を廢し、呉海兵團前練兵場にて執行されたり。』
  139. ^ 大正7年7月29日付 海軍公報(部外秘)第1768号。
  140. ^ 大正7年7月22日(月)海軍公報 第1762号 p.37」 アジア歴史資料センター Ref.C12070258600 『○追弔會 來ル七月二十六日午前十時横須賀海軍下士卒集會所ニ於テ軍艦河内殉難者ノ追弔會(佛式)ヲ執行ス(横須賀鎮守府)』
  141. ^ 大正7年8月5日付 海軍公報(部外秘)第1773号。
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参考文献

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    • 『大正2年 公文備考 艦船3 巻22/亡失、売却及撤去、処分(1)』。Ref.C08020260200。 
    • 『大正2年 公文備考 艦船5 巻24/河内短艇遭難一件(2)』。Ref.C08020264100。 
    • 『大正3年 公文備考 艦船5 巻19/旗艦及役務変更届(1)』。Ref.C08020407800。 
    • 『大正6年 公文備考 艦船2 巻20/装備、装置及兵装(1)』。Ref.C08020925500。 
    • 『大正6年 公文備考 艦船3 巻21/使用』。Ref.C08020927100。 
    • 『大正6年 公文備考 艦船5 巻23/任務(1)』。Ref.C08020930800。 
    • 『大正6年 公文備考 艦船31止 巻50/雑款(4)』。Ref.C08021154100。 
    • 『大正7年 公文備考 艦船20 巻39/葬儀関係』。Ref.C08021134700。 
    • 『大正7年 公文備考 艦船21 巻40/査定会(1)』。Ref.C08021136700。 
    • 『大正7年 公文備考 艦船21 巻40/査定会(3)』。Ref.C08021136900。 
    • 『大正7年 公文備考 艦船21 巻40/査定会(5)』。Ref.C08021137100。 
    • 『大正7年 公文備考 艦船22 巻41/雑(2)』。Ref.C08021138400。 
    • 『大正12年 公文備考 巻111/献納品(1)』。Ref.C08050894500。 
    • 『大正7年 公文備考 艦船22 巻41/雑(3)』。Ref.C08021138500。 
    • 『大正12年 公文備考 巻111/献納品(2)』。Ref.C08050894600。 
    • 『明治44年 達 完/6月』。Ref.C12070062400。 
    • 『明治44年 達 完/10月』。Ref.C12070062800。 
    • 『大正1年 達 完/10月』。Ref.C12070064600。 
    • 『大正1年 達 完/12月』。Ref.C12070064900。 
    • 『大正7年 達 完/9月』。Ref.C12070074400。 
    • 『大正2年 海軍公報 部外秘共 上巻/大正2年2月(1)』。Ref.C12070237700。 
    • 『大正2年 海軍公報 部外秘共 上巻/大正2年2月(2)』。Ref.C12070237800。 
    • 『大正2年 海軍公報 部外秘共 上巻/大正2年4月(2)』。Ref.C12070238200。 
    • 『大正3年 海軍公報 部外秘共 下巻/大正3年9月(1)』。Ref.C12070242800。 
    • 『大正3年 海軍公報 部外秘共 下巻/大正3年9月(2)』。Ref.C12070242900。 
    • 『恩給叙勲年加算調査 下巻 除籍艦艇 船舶及特務艇 昭和9年12月31日/除籍艦艇/軍艦(1)』。Ref.C14010005500。 

関連項目

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外部リンク

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