渡辺七郎
渡辺 七郎(渡邊 七郎、わたなべ しちろう、1885年(明治18年)4月8日[1] - 1933年(昭和8年)4月26日[1][2])は、大正・昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。
経歴
[編集]会計検査院長・渡邊昇の長男として生まれる[1][3]。父の死去に伴い、1913年(大正2年)12月10日、子爵を襲爵した[1][3][4]。
1915年(大正4年)慶應義塾大学部法律科を卒業[3]。1921年(大正10年)大日本武徳会商議員に就任した[2]。
1924年(大正13年)3月8日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[5][6]、研究会に所属して活動し死去するまで3期在任した[2]。
1933年(昭和8年)に七郎が没した後は、長男の武宣が襲爵。さらに1938年(昭和13年)に武宣が没すると、弟の武治が襲爵した[7]。
家族
[編集]- 父:渡辺昇
- 母:いく(萩藩御用達の京都の書籍商・大黒屋太郎右衛門の三女)[8][9][10]
- 先々妻:朝(大黒屋の養子・今井太郞右衞門の長女)[8][9]
- 先妻:千代子(ちよこ、福岡県士族加藤万四郎長女)[1][11]
- 後妻:男依(おより、林興太二女、跡見女学校出身)[1]
- 長男:武宣(子爵、1915年生)[1]
- 三男:武治(子爵、海軍大尉、1919年生、1944年戦死)[1][注 1]
- 弟:渡辺八郎(1887-1971、秩父宮家御用掛、学習院講師)[8][12]
- 伯父:渡辺清 (政治家)(男爵)
- いとこ:石井筆子(教育者)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 武治戦死後に襲爵の手続きは行われなかった。『平成新修旧華族家系大成』下巻、857頁。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h 『平成新修旧華族家系大成 下巻』857頁。
- ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』60頁。
- ^ a b c 『人事興信録 第9版』ワ44頁。
- ^ 『官報』第412号、大正2年12月11日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、32頁。
- ^ 『官報』第3462号、大正13年3月11日。
- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、537頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
- ^ a b c 渡辺七郎『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ a b 今井太郞右衞門コトバンク
- ^ 『もう一つの維新史: 長崎・大村藩の場合』外山幹夫、新潮社, 1993、p38
- ^ 加藤万四郎『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 『二・二六事件の原点: 陸軍士官学校における革新の狠火』芦沢紀之、原書房, 1974 p81
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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