王朝
王朝(おうちょう、英: Dynasty)とは、歴史の分類方法の一つで、君主の系列あるいはその系列が支配した時代を分類するための歴史用語である。「朝」は朝儀に由来する[注釈 1]。歴史家は歴史研究の都合上、君主の系列を各々の時代や文化圏にあわせて王朝として便宜的に分割してきた。そのため、王朝の定義や分類方法に世界共通の規則はなく、王朝の範囲は歴史家によって異なることがある。すなわち、現君主国が自ら王朝名を名乗ることはない。
概要
[編集]王朝とは、歴史家による君主の系列の人工的な分類である。多くの場合は、血族や養子縁組による世襲君主制の君主の系列を分類するために用いられるが、奴隷王朝やマムルーク朝のように血縁とは無関係な君主の系列に用いられる場合もある。王朝名は、王朝に分類された君主の在位時から意識されている場合もあるが、ほとんどは後世の歴史家による命名である。
中国の王朝
[編集]多くの場合、王朝は同姓の一族による一連の世襲を指し、王朝ごとに国号が違うため、国号が王朝名として使われる。王朝の交替は血統の断絶ではなく徳の断絶によって定義される。徳が連続している間は血統が離れた相続や別姓の非血縁者による相続も可能だが、いったん徳が断絶したものを再興した場合は血統が継続していようとも前漢、後漢のように区別するのが普通である。そのため、中国南朝の斉と梁などのように、男系で連なる同姓血族の相続であっても、徳が断絶したと認識されれば王朝も交替したものとみなされる。
西洋文化圏
[編集]王朝が同一家名の君主の連続によるものと定義され、家名が王朝名となる。例えばイギリス王のジョージ5世は、在位7年目まではサクス=コバーグ=ゴータ家を名乗っていたが、1917年に家名をウィンザー家と改称したため、これによって王朝が交代したものとされる。また、当事者による家名の変更以外にも、嫡流が断絶して既に別家を立てている兄弟への継承や、傍系継承または女系継承が起きた場合も家名が変われば王朝の交替となる[注釈 2]。ただし、近年は女系継承が行なわれても母方の家名を用いる(=君主の家名が変わらない)ことが多く、その場合は一般的には王朝交代とはみなされないため、一概に女系継承や傍系継承が王朝交代(家名変更)に直結するとは言えない。ヨーロッパの王家は武力で滅亡する例は少なく、多くが嫡流の断絶による家名の変更である。ただし、中世以前には正式な家名が無い場合が多く、多くは後世の歴史家が適当に命名および分類したものである[注釈 3]。
イスラム文化圏
[編集]当初はムハンマドに始まるアラブ人の世襲のカリフの権勢が及ぶ範囲を王朝と定義でき、その最初にして8世紀までに強大な勢力を築いた王朝はイスラム帝国(サラセン帝国)と呼ばれている。しかし、ペルシア人も台頭してムスリム内では対立が激化し、10世紀にはカリフが乱立するなどして権威が失墜した。その後はスルタン、シャー、ハンなどの君主号で有力者がそれぞれに王朝を建てて世襲した。アラビアのほか、ペルシャ、シリア、などは古代ギリシア語による地方名のエクソニムであったが、君主は対外的には帝政[注釈 4]を敷いていたため、しばしば歴史家によって権勢の及ぶ範囲を国家に相当する領土範囲と認め、サーサーン朝、セレウコス朝、ファーティマ朝、アッバース朝などの王朝名で国名に代替した経緯がある[注釈 5][注釈 6]。現代でも、例えばサウジアラビアは「サウード家のアラビア地域の王国」を意味している。もっとも、いくつかある諸権勢を1つに束ねられるさらに大きな大権が登場したときには、西欧の定義に倣ってこれを「帝王」と認め帝国を定義している。これによりオスマン朝はオスマン帝国とも呼ばれる。
日本の王朝
[編集]日本史において、一般的に王朝の分割による時代の分類は意識されておらず、また皇統以外の王権の存在も意識されていないため、「王朝」の呼称は(武家政権時代(院政も含める)との対比による呼称としての)「王朝時代」の例を除いて一般には用いられない。この例では、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代を代替して「王朝時代」と呼び、同時代の文化を王朝文化、王朝文学、王朝物語、そして11世紀中期ないし12世紀後期までの期間を王朝国家と呼ぶことがある。
各々の天皇の時代を「推古朝」等のように呼ぶ例や、皇統が断絶しないよう傍系から擁立した例(継体天皇、光仁天皇など)で「仁徳朝」「天武朝」と言及されることがあるが、あまり一般的な用法とはなっていない。
王朝の定義認識の諸例
[編集]- 徳川将軍家で8代将軍徳川吉宗が紀州徳川家から入ったり、応神天皇の五世孫として継体天皇が即位したりするのは、日本では同一王朝とみなされるが、西欧文化圏や中華文化圏の一般的な見方に拠れば王朝の交代とみなされる可能性がある。
- フランス王国のカペー朝・ヴァロワ朝・ブルボン朝・オルレアン朝は、西欧文化圏では王朝交代とみなされるが、日本や漢字文化圏での一般的な見方に拠れば、すべてユーグ・カペーの男系子孫による同一王朝とみなされる可能性がある。
- 中国の清朝の起点は日本ではヌルハチとされるのが一般的であるが、中国ではヌルハチとホンタイジを後金、順治帝以降を清朝として分割する場合がある。
- バーブルの前半生はティムール朝の歴史であるが、後半生はムガル朝の歴史とされるように、同一人物であっても政権・政体の変化によって別王朝として扱われることがある。
- イギリス王のジョージ5世の統治時代のうち1917年まではサクス=コバーグ=ゴータ朝とされ1917年以降がウィンザー朝とされる。
暗喩として
[編集]現在でも、世襲や同族経営が行われる財閥企業グループ、家元制や世襲政治家の家系などにおいて比喩的に使われる場合がある。(例:「ケネディ王朝」「金王朝」)。
また英単語dynasty(英語版:dynasty(sports))はスポーツの分野において、特定の選手・チームがその競技やリーグの頂点を長期間勝ち取り続けることを表し、日本語においても「王朝」と翻訳される場合がある。[1]
既存の王朝
[編集]既存の主権王朝の一覧
[編集]非主権王朝が既存する国と地域の一覧
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ この語の英語の対応は Imperial Council で、「最高意思決定」のための「評議会」といった意味合いになる。
- ^ 傍系継承では家名が変わらないことも多いため、その場合は王朝交代とはされない場合も多い。
- ^ その王朝で最も有名な君主の名前や、王朝の出身地名など。プトレマイオス朝など。
- ^ 地域の首長である王国ではなく、族長や諸王国を統率する君主制であるため王政とは区別される。
- ^ ラテン語のインペリウムで説明される君主制では国号の有無を問わない。
- ^ イスラム世界の思想では、すべての人間は理想とする指導者の権勢下で統一されるべきとされ、それは唯一であるため、他と区別するための国名を持つ必要性の意識は低い。
- ^ 憲法上主権王朝とは定められていない
- ^ ブルボン=アンジュー朝はブルボン朝の分家
- ^ ルクセンブルク=ナッサウ朝はナッサウ=ヴァイルブルク朝の分家
- ^ オラニエ=ナッサウ朝はナッサウ朝の分家
- ^ オランダ王国は以下の部分で構成されています:
- ^ ベルジック朝はザクセン=コーブルク=ゴータ朝の分家。1920年、王朝は正式に「ザクセン=コーブルク=ゴータ」から「ベルジック」になり、名前が変更された。
- ^ シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク朝はオルデンブルク朝の分家
- ^ デンマーク王国共同体は以下の部分で構成されています:
- ^ ハーシム朝はアリー朝の分家
- ^ ウィンザー朝はザクセン=コーブルク=ゴータ朝の分家。1917年、王朝は正式に「ザクセン=コーブルク=ゴータ」から「ウィンザー」になり、名前が変更された。
- ^ 含む:
- ^ ニュージーランド王国は以下の部分で構成されています:
- ^ 含む:
- ^ ノロドム朝はヴァルマン朝の分家
出典
[編集]- ^ “シャック、レイカーズ王朝の到来を確信した瞬間を明かす「その時から俺たちによる支配が始まった」 | NBA Rakuten”. nba.rakuten.co.jp (2020年6月7日). 2024年7月6日閲覧。