畢
国姓 | 姫姓畢氏 |
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爵位 | 伯 |
国都 | 畢 |
分封者 | 周の武王 |
始祖 | 畢公高 |
滅亡原因 | 西戎により滅亡 |
周朝諸侯国一覧 |
建国
[編集]文王の十五男の畢公高が武王によって畢(現在の陝西省咸陽市渭城区と西安市長安区の一帯)に封じられた。畢公高で畢の始祖である。畢公高の長男の楷伯は楷に封じられたため、次男の畢仲が畢を継承した[1][2]。
滅亡
[編集]建国から四百年後、畢は西戎により滅亡した。しかし、平王ともに東の洛邑に遷った畢は戦国時代まで命脈を保った可能性もある[3]。
滅亡後
[編集]畢公高の後裔の畢万は亡国後、晋に趣き、献公により大夫となった。畢万は献公につき従い出征し、軍功が卓著であったため、魏に封じられ、魏氏を名乗った。文侯の代に趙・韓の三国で晋を分割し(三家分晋)、周王の冊封を受け、戦国七雄の一国となった。
歴代君主
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 劉, 成群 (2012年), “《畢公事跡及畢公世系初探——基于清華簡的研究》”, 《上海交通大学学報(哲学社会科学版)》 (第4期): pp. 92-98
- ^ a b c 陳, 穎飛 (2012年), “《清華簡畢公高、畢桓与西周畢氏》”, 《中国国家博物館館刊》 (第6期): pp. 35-49
- ^ 王, 亜楠 (2016), “《“畢公左御”戈銘文考釋及相関問題研究》”, 《中原文物》 (第6期): pp. 70-75