畢構
畢 構(ひつ こう、生年不詳 - 716年)は、唐代の官僚。字は隆択[1]。本貫は洛州偃師県[2][1]。
経歴
[編集]武周のときの衛尉寺少卿の畢憬の子として生まれた。6歳で文章を作ることができた。若くして進士に及第し、金水県尉に任じられ、九隴県主簿に転じた。武則天に召し出されて左拾遺となった。神龍初年、中書舎人に任じられた。敬暉らが武氏の諸王を公に降格するよう請願する上奏をおこない、畢構が上表文を読み上げると、その声調は明るくのびやかで、その文句ははっきりしていて、聴く者に分かりやすかった。このため畢構は武三思に憎まれて、潤州刺史として出された。衛州刺史・同州刺史を歴任して、益州大都督府長史に転じた[2][1]。
景雲初年、長安に召還されて左御史大夫に任じられ、陝州刺史に転じた。銀青光禄大夫の位を加えられ、魏県男に封じられた。ほどなく再び益州大都督府長史となり、剣南道按察使を兼ねた。州府の官を歴任して、その声誉功績は顕著であった。とくに蜀中の旧弊を革めて、その統治は清廉厳正と称された。睿宗がこれを聞いて畢構に璽書を賜って労った[2][1]。
ほどなく戸部尚書に任じられ、吏部尚書に転じ、いずれも益州大都督府長史を遥領した。広州都督に転じた。先天元年(712年)、玄宗が即位すると、畢構は河南尹に任じられ、再び戸部尚書に転じた。開元4年(716年)、病にかかり、玄宗は医者を送って見舞わせた。ときに戸部尚書は凶官であるとして、太子詹事に改めて任じ、その回復を願わせた[3][1]。10月癸丑、畢構は死去した[4]。黄門監の位を追贈された。諡は景といった[3][1]。
脚注
[編集]伝記資料
[編集]参考文献
[編集]- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00320-6。