平井権八
『東海道五十三次の内 川崎駅 白井権八』 三代目歌川豊国、1852年 | |
時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 明暦元年頃 1655年 |
死没 | 延宝7年11月3日 1679年12月5日(満23-24歳没) |
別名 | 白井 権八 (しらい ごんぱち) |
墓所 | 瀧泉寺 (比翼塚) |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 池田光仲 |
藩 | 鳥取藩 |
妻 | 小紫 |
平井権八 | |
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個人情報 | |
生誕 | 1655年??月??日 徳川幕府 |
死没 | 1679年12月5日(満23-24歳没) 徳川幕府 |
死因 | 刑死 |
殺人 | |
犠牲者数 | 130〜185人以上 |
犯行期間 | 1672年–1678年? |
国 | 徳川幕府 |
凶器 | 日本刀 |
動機 | 強盗目的 |
司法上処分 | |
有罪判決 | 殺人罪、強盗殺人、連続殺人 |
平井 権八(ひらい ごんぱち、1655年(明暦元年)頃 - 1679年12月5日(延宝7年11月3日))は、江戸時代前期に実在した日本の武士のシリアルキラーである[1][2][3][4][5][6]。講談・浄瑠璃・歌舞伎・映画等の世界では、白井 権八(しらい ごんぱち)として知られる[1][2][3][4][5][6]。
人物・来歴
[編集]明暦元年(グレゴリオ暦1655年)に生まれた、とされる[1]。「享年25」からの推測である[1]。父は平井正右衛門。
因幡国鳥取藩士であったが、数え18歳の1672年(寛文12年)秋、父・正右衛門の同僚である本庄助太夫(須藤助太夫とも)を斬殺して、江戸へ逃亡(退去とも)した[1][2][3][4][5][6][7]。新吉原の三浦屋の遊女・小紫と昵懇となる[1][4][5][6]。やがて困窮し、辻斬り(強盗殺人)を犯し、130人もの人を殺し、金品を奪ったとされる[1][2][3][4][5][6]。権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあったとされる普化宗東昌寺(現在廃寺)に匿われ、尺八を修め虚無僧になり、虚無僧姿で郷里・鳥取を訪れたが、すでに父母が死去していたことから、自首したとされる[7]。
1679年12月5日(延宝7年11月3日)、品川・鈴ヶ森刑場で刑死した[1]。享年25(満23-24歳没)[1]。小紫は刑死の報を受け、東昌寺の墓前で自害したとされる[7]。同寺に「比翼塚」がつくられたが、同寺が廃寺となったため移転し、目黒不動瀧泉寺(東京都目黒区下目黒)の門前に現存している(北緯35度37分38.9秒 東経139度42分30.3秒 / 北緯35.627472度 東経139.708417度)。
伝説・物語
[編集]幡随院長兵衛(1622年 - 1657年)とのエピソードが多く語られるが、実在の長兵衛は1657年に殺害されており、時代にずれがある[1][4][5][6]。『浮世柄比翼稲妻』(四代目鶴屋南北、1823年)における二人の鈴ヶ森での出会い(御存鈴ヶ森)で、長兵衛に「お若えの、お待ちなせえやし」と問われ、「待てとお止めなされしは、拙者がことでござるかな」と応える台詞が有名である[1][4]。長兵衛との説話では、権八はこの後、長兵衛の食客となったとされ、「権八」といえば「居候」を意味するほどに普及したエピソードである[4]。
「白井権八」と「小紫」を描いた歌舞伎狂言や浄瑠璃を「権八小紫物」と呼び、ほかにも、『江戸名所緑曾我』(1779年)、『驪山比翼塚』(吉田鬼眼・桂川甫粲、同年)等がある[7]。
吹上宿には、権八の辻斬りに由来した「荊原権八延命地蔵」がある。
1852年6月-7月(嘉永5年5月)、三代目歌川豊国(歌川国貞)が『東海道五十三次の内 川崎駅 白井権八』に描いた権八は、『浮世柄比翼稲妻』のうちの『鈴ヶ森』の場であるが、六郷の渡しをバックに描かれている。
テアトログラフィ
[編集]歌舞伎で「白井権八」を演じたおもな俳優の一覧である。生誕順。
- 十五代目市村羽左衛門(1874年 - 1945年) - 『其小唄夢廓』
- 八代目市川團蔵(1882年 - 1966年) - 『御存鈴ヶ森』
- 七代目尾上梅幸(1915年 - 1995年) - 『御存鈴ヶ森』
- 六代目中村歌右衛門(1917年 - 2001年) - 『浮世柄比翼稲妻』
フィルモグラフィ
[編集]日本映画データベース、キネマ旬報映画データベース等にみられる「平井権八」(白井権八)の登場する劇映画一覧である。末尾の俳優が権八を演じた。
- 『白井権八』 : 製作・配給吉沢商店、1910年8月21日公開
- 『白井権八』 : 製作・配給M・パテー商会、1912年7月1日公開
- 『平井権八』 : 製作日活京都撮影所、配給日活、1916年5月25日公開 - 尾上松之助
- 『平井権八』 : 製作日活京都撮影所、配給日活、1921年12月20日公開 - 尾上松之助
- 『平井権八』 : 監督広瀬五郎、製作・配給帝国キネマ演芸 1925年9月23日公開 - 市川百々之助
- 『白井権八』 : 監督山崎藤江、製作衣笠映画聯盟/松竹下加茂撮影所、配給松竹キネマ、1928年3月31日公開 - 林長二郎
- 『平井権八』 : 監督丘虹二、製作・配給河合プロダクション 1928年9月14日公開 - 市川市丸
- 『白井権八』 : 監督由川正和、製作日活太秦撮影所、配給日活、1929年7月26日公開 - 永井寛二郎
- 『鬼鹿毛若衆』 : 監督池田富保、製作日活太秦撮影所、配給日活、1930年8月15日公開 - 沢田清(平井権八役)
- 『若衆髷』 : 監督村田正雄[要曖昧さ回避]、製作・配給新興キネマ、1934年5月10日公開 - 尾上菊太郎[要曖昧さ回避](平井権八役)
- 『白井権八』 : 監督菅沼完二、製作日活京都撮影所、配給日活、1936年12月11日公開 - 尾上菊太郎
- 『大江戸五人男』 : 監督伊藤大輔、製作松竹京都撮影所、配給松竹、1951年11月22日公開 - 高橋貞二(白井権八役)
- 『濡れ髪権八』 : 監督大曾根辰夫、製作松竹京都撮影所、配給松竹、1954年3月3日公開 - 高橋貞二(白井権八役)
- 『白井権八』 : 監督安田公義、製作宝塚映画、配給東宝、1956年2月12日公開 - 二代目中村扇雀
- 『大江戸人気男』 : 監督斎藤寅次郎、製作大映京都撮影所、配給大映、1957年5月8日公開 - 勝新太郎(白井権八役)
- 『命を賭ける男』 : 監督加戸敏、製作大映京都撮影所、配給大映、1958年4月29日公開 - 川口浩(白井権八役)
- 『花の幡随院』 : 監督大曾根辰保、製作松竹京都撮影所、配給松竹、1959年9月13日公開 - 津川雅彦(白井権八役)
- 『旗本と幡随院 男の対決』 : 監督深田金之助、製作東映京都撮影所、配給東映、1960年4月12日公開 - 伏見扇太郎(白井権八役)
- 『花のお江戸の無責任』 : 監督山本嘉次郎、製作・配給東宝、1964年12月20日公開 - 谷啓(白井村の権八役)
- 『天下の副将軍水戸光圀 徳川御三家の激闘』 : 監督貞永方久・奥村正彦・高瀬昌弘、テレビ東京/松竹、1992年1月2日放映 - 梨本謙次郎(平井権八役)
ほかにも下記のものがある。
楽曲
[編集]楽曲で「白井権八」をとりあげたものとして以下のものがある。
- 『白井権八』(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正、歌唱:橋幸夫)ビクター(VS-1182)1964年2月
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 平井権八、デジタル版 日本人名大辞典+Plus、コトバンク、2012年7月27日閲覧。
- ^ a b c d 平井権八、デジタル大辞泉、コトバンク、2012年7月27日閲覧。
- ^ a b c d 平井権八、大辞林 第三版、コトバンク、2012年7月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 白井権八、朝日日本歴史人物事典、コトバンク、2012年7月27日閲覧。
- ^ a b c d e f 白井権八、デジタル大辞泉、コトバンク、2012年7月27日閲覧。
- ^ a b c d e f 白井権八、大辞林 第三版、コトバンク、2012年7月27日閲覧。
- ^ a b c d 世界大百科事典 第2版『権八小紫物』 - コトバンク、2012年7月27日閲覧。
参考文献
[編集]関連項目
[編集]- 立川文庫
- かむろ坂
- 吹上宿
- 可江集
- 青砥稿花紅彩画(白浪五人男) - 赤星十三郎のモデルとされている。
- 幡随院長兵衛お待ちなせえ - 『浮世柄比翼稲妻』で権八に長兵衛が言った台詞をタイトルにしたテレビ映画。
- 1900年以前の連続殺人犯リスト