磯田三郎
磯田 三郎 いそだ さぶろう | |
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生誕 | 1892年2月28日 日本 群馬県 |
死没 | 1979年10月26日(87歳没) |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1913年 - 1946年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
磯田 三郎(いそだ さぶろう、1892年〈明治25年〉2月28日[1][注 1] - 1979年〈昭和54年〉10月26日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]群馬県出身[1][2]。農業・磯田芳十郎の息子として生まれる[1]。日本中学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)卒業[1][2][3]。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第17連隊付となる[1][3]。1916年(大正5年)11月、陸軍砲工学校高等科を卒業[1]。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)卒業し、野砲兵第17連隊中隊長に就任[1][2][4]。
1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員を経て、1925年(大正14年)5月、アメリカ大使館付武官補佐官に発令[1]。1927年(昭和2年)7月、参謀本部員に就任し、第6師団参謀に異動[1]。1928年(昭和3年)8月、砲兵少佐に昇進[1]。参謀本部員を経て、1930年(昭和5年)6月、メキシコ公使館付武官となる[1]。1932年(昭和7年)4月、参謀本部付となり、同年8月、砲兵中佐に進級し陸軍兵器本廠付(陸軍省新聞班)に就任[1]。1933年(昭和8年)12月、陸軍野戦砲兵学校教官に転じ、1936年(昭和11年)12月、砲兵大佐に昇進[1][4]。
1937年(昭和12年)10月、第114師団参謀長に就任し日中戦争に出征[1][2][4]。第二次上海事変、南京攻略戦、徐州会戦に参加[2]。その後、華北での治安作戦に従事し、1939年(昭和14年)7月に復員[要出典]。同年8月、陸軍少将に進級[1][4]。翌月、留守第14師団司令部付[注 2]。同年12月、アメリカ大使館付武官として渡米し日米交渉に加わる[1][2][4]。日米開戦の直前、1941年(昭和16年)12月、アメリカで客死した新庄健吉陸軍主計大佐の葬儀委員長を務めた[要出典]。
1942年(昭和17年)8月、交換船で帰国し陸軍中将に進み参謀本部付となる[1][2][4]。同年11月、第22師団長に親補され広州に赴任[1][2][4]。1944年(昭和19年)1月、南方軍遊撃隊司令官(1945年1月まで)、光機関長(1945年8月まで)に就任[1][2][4]。1945年(昭和20年)1月、南方軍総司令部附となり終戦を迎えた[5]。
第二次世界大戦直後は、連合軍と捕虜の間の仲介も行った。1945年12月2日にはインド政府の依頼を受け、沢田廉三元ビルマ大使とともにインドのデオリ収容所(アジュメール近郊)を訪問。敗戦を信じない収容者に対し説明を行った(ただし、磯田と沢田を偽物として疑う者が現れ、収容所内で「勝ち組」と「負け組」による抗争が発生した)[6]。
1946年(昭和21年)10月に復員した[1][2]。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[7]。
栄典
[編集]- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[8]
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『日本陸海軍総合事典』第2版、19頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 『日本陸軍将官辞典』76頁。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』328、331頁。
- ^ a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』331頁。
- ^ 「第9号 昭和20年1月16日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120931000
- ^ 終戦間もないインド収容所 邦人17人殺される『朝日新聞』1976年(昭和51年)5月31日朝刊、13版、3面
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」36頁。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。