神吉頼定
神吉 頼定(かんき よりさだ、生年不詳 - 1578年(天正6年))は、日本の武将、神吉城主、別所氏家臣[1]。通称は民部少輔[2]。
神吉城城主・神吉頼定の墓(加古川市) | |
時代 | 室町時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 1578年(天正6年) |
別名 | 神吉頼治、神吉民部少輔・民部大輔 |
戒名 | 捨往院殿徹旺頑牲大居士? |
墓所 | 常楽寺 |
官位 | 民部少輔、従五位上 |
主君 | 別所氏 |
氏族 | 神吉氏 |
父母 | 父: 神吉頼氏 |
兄弟 | 信烈、頼定 |
妻 | 黒田孝高の娘 |
三木合戦で戦功をあげるも、叔父の神吉貞光に暗殺され死去した[2]。
名前について
[編集]官途は民部少輔だと言われるが、一部では民部大輔とも言われている[3]。また、頼定の他に頼治という別名もあるとされる[3]。
生涯
[編集]出自
[編集]父は神吉城主の神吉頼氏[2]。一説だと神吉頼経とも言われている[4]。別所氏の連枝衆で、一万石を領した[2]。神吉氏は代々、赤松氏の庶流であった。神吉城の初代城主は赤松氏の赤松範次である[3]。
三木合戦
[編集]1578年(天正6年)の織田信長による中国攻めの際、頼定は衣笠範景と淡河定範、間島氏勝、長井長重、櫛橋伊定、梶原景行らと共に別所長治側に着いた。別所長治は援軍として頼定に梶原景治や柏原治郎右衛門、黒田若狭守、中村壹岐守ら約1800の兵を率いて籠城した[3]。
死去
[編集]神吉城を落とせなかった織田勢の1人、佐久間信盛は密かに頼定の叔父・神吉貞光を内応させ、佐久間信盛と貞光の軍勢により頼定は暗殺されたと言われる。しかし、これは創作とも言われており、本来は豊臣秀吉の軍勢が一気に押し掛かり頼定を討死させ、神吉城を落としたとも言われる[3]。墓は加古川市神吉町の常楽寺。
登場作品
[編集]脚注
[編集]- ^ https://www.facebook.com/murakushu+(2022年3月30日).+“織田信忠軍と徹底抗戦、神吉頼定”. 2023年6月22日閲覧。
- ^ a b c d 小早川秀秋 (2012年9月4日). “戦国武将録: 戦国播磨国人名辞典”. 戦国武将録. 2023年6月22日閲覧。
- ^ a b c d e “武家家伝_神吉氏”. 播磨屋. 2023年6月22日閲覧。
- ^ “神吉頼経の石垣(3) 頼経は頼定の父 - ひろかずのブログ”. goo blog. 2023年6月22日閲覧。
参考文献
[編集]- 『信長公記 巻11』太田牛一