稲田藤治郎
稲田藤治郎 いなだ とうじろう | |
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生年月日 | 1869年 |
出生地 | 日本 伯耆国鳥取藩会見郡米子町 (現:鳥取県米子市) |
没年月日 | 1942年 |
出身校 | 東京高等商業学校 (現一橋大学) |
所属政党 | 政友会 |
選挙区 | 鳥取県郡部 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1903年3月1日 - 1903年12月11日 |
稲田 藤治郎(いなだ とうじろう、明治2年3月21日[1](1869年5月2日) - 昭和17年(1942年)2月22日[2])は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。稲田家の七代目。鳥取県平民[3]。
弁護士・公証人雑賀愛造、洋食のレストラン“十字屋”経営主で元米子市会議員野坂康久などは稲田一族の出身である。
経歴
[編集]鳥取県米子市久米町出身[4]。稲田喜重郎の二男[5]。家業は酒・醤油醸造業[4](現・稲田本店)。
明治21年(1888年)東京高等商業学校(一橋大学の前身)卒業[5]。
明治25年(1892年) 久米町にてビール工場を建設。本場ドイツで学んだ技師を雇い入れ、瓶は手拭で手造り、長いコルク栓でガス漏れを防ぐ等の工夫を凝らし“イナタビール”として売り出す。後年隣家より出火、類焼(ビール工場は全焼)に逢い、ビール製造は中止の止むなきに至ったが、地ビール製造の先駆とも言える存在であった[6]。
予備陸軍三等軍吏から陸軍一等主計に昇進し、この間、日清戦争、日露戦争に従軍した[4]。
明治36年(1903年)3月、第8回衆議院議員総選挙に鳥取県郡部から出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した[2]。
大正2年(1913年)兄秀太郎方より分家して一家を創立す[5]。
政治の世界を去ってからは東京に在住して各種の事業を営んだ。
家族・親族
[編集]稲田家
[編集]- 『新修 米子市史 第五巻 民俗編』によれば、
- 「因幡屋稲田家は、延宝年代(1673年~1680年)以前に因幡から伯耆の大寺村(現岸本町大寺)へ移り、元禄のころには米子で酒造業を営んでいる[7]。米子での初代は因幡屋半兵衛(延享三年没)で、二代七左衛門(元文二年~文化六年)、三代喜右衛門(宝暦一二年~文政七年)、四代嘉右衛門(寛政七年~明治一八年)、五代喜右衛門(改喜重郎、天保七年~明治四二年)と続いている[7]。」。
- 『米子商業史』によれば、
- 「紺屋町で酒造業、質商を営んだ因幡屋稲田家は、昭和9年(1934年)同家七代目藤治郎が記した稲田家系図によると、延宝年代(1673年~1680年)以前、因幡から大寺村に移って、生業に従事していたが、元禄のころ米子に移り、岩倉町から尾高町に落ち着いた[8]。米子の初代は因幡屋半兵衛で、古い祖先の墓が飯生村にあったのを、菩提寺の安国寺に移したという[8]。半兵衛は延享3年(1746年)没[8]。18世紀の70~80年代に、紺屋町に移って酒造業を開始した[8]。
- 四代嘉右衛門は、明治18年(1885年)84歳で没するまで長命を保ったが、営業を拡大し、町年寄その他公職を奉じ、苗字帯刀を許された[9]。華道、茶道の趣味もあり、菩提寺鐘楼の建立や、荒尾家への資金用立などにその財力を示した[9]。
- 継母・いわ[11]
三男 恭三 明治32年生まれ(湯浅坂本法律特許事務所). 四男 謙吉(軍人川井氏へ養子) 明治33年生まれ 宗教は曹洞宗[12]。
脚注
[編集]- ^ 衆議院『第十八回帝国議会衆議院議員名簿』(第十八回帝国議会衆議院公報第一号附録)〔1903年〕、20頁。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』72頁。
- ^ a b c d e 『人事興信録. 6版』(大正10年)い一二一
- ^ a b c 『鳥取県大百科事典』58頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『人事興信録. 第8版』(昭和3年)イ一九四
- ^ 蔵元 稲田本店【歴史】
- ^ a b 『新修 米子市史 第五巻 民俗編』656頁
- ^ a b c d 『米子商業史』55頁
- ^ a b c d 『米子商業史』56頁
- ^ 『米子商業史』393頁によれば“喜重郎”である
- ^ いわは『人事興信録. 6版』(大正10年)では「吹野道玄長女」だが『人事興信録. 第8版』(昭和3年)では「矢野通玄長女」である
- ^ a b c d 『新日本人物大観(鳥取県版)』1958年 イ…311頁
参考文献
[編集]- 『鳥取県大百科事典』編集・新日本海新聞社鳥取県大百科事典編集委員会、1984年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『勝田ヶ丘の人物誌』2000年、18-21頁。