紀元前393年
世紀 | 前5世紀 - 前4世紀 - 前3世紀 |
---|---|
十年紀 | 前410年代 前400年代 前390年代 前380年代 前370年代 |
年 | 前396年 前395年 前394年 紀元前393年 前392年 前391年 前390年 |
紀元前393年(きげんぜん393ねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「ポプリコラとコルネリウスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元361年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前393年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
[編集]できごと
[編集]ギリシア
[編集]- コリントス戦争(紀元前395年 - 紀元前387年)
- アテナイの将軍コノンとアケメネス朝ペルシア帝国のサトラップ(太守)ファルナバゾス2世は、ギリシア本土に向かい、ラコニアの沿岸を襲撃し、キュテーラ島を占領し、守備隊とアテナイ人の総督を置いた。
- ファルナバゾスは、相当の資金と艦隊の大部分をコノンに与えてアッティケーへ派遣し、前年にトラスブロス (Thrasybulus) が始めた、アテナイからピレウスまでを結ぶ長城の再建に参加させた。この建設は、程なくして完工し、アテナイはこれによる防衛態勢の強化をすぐに活かして、スキュロス島、イムブロス島、レムノス島などを制服し、そこにクレルキア(Cleruchy)、すなわち住民がアテナイ市民としての身分を持ったまま移住し、政治的自治権を持たない植民都市を建設した。
- コリントスでは、民主政派と寡頭政派の闘争が始まった。アルゴスに支援された民主政派は、敵対者への一斉攻撃に出て、寡頭政派を都市から追い出した。追い出された者たちは、当時シキュオノス (Sicyon) を拠点としていたスパルタ軍のもとへ向かい、支援を求めた。一方、アテナイとボイオーティアは、民主政派を支援した。
- スパルタ軍と亡命者たちは、コリンティアコス湾に臨むコリントスの港町レカエウム (Lechaeum) に夜襲をかけてこれを陥れ、翌日になってやってきた敵軍も打ち破った。
マケドニア王国
[編集]- 紀元前399年のアルケラオス1世の死去以来の混乱期を経て、アレクサンドロス1世の曾孫アミュンタス3世 (Amyntas III of Macedon) がマケドニア王となった。
エジプト
[編集]- ネフアアルド1世が死去し、後継にネフアアルド1世の息子ムティス (Muthis) を推す一派とプサムティスを推す一派が争った。この争いにはプサムティスが勝ったが、その統治はこの年のうちに終わりを告げた。
- ハコルは、第29王朝開祖ネフアアルド1世の孫であると自称し、プサムティスから王座を奪い取った。
中国
[編集]誕生
[編集]→「Category:紀元前393年生」も参照
死去
[編集]→「Category:紀元前393年没」も参照
脚注
[編集]注釈
出典