細川忠康
細川 忠康 | |
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生誕 | 1890年12月1日 日本 鳥取県 |
死没 | 1958年12月7日(68歳没) |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1912 - 1947 |
最終階級 | 陸軍中将 |
細川 忠康(ほそかわ ただやす、1890年(明治23年)12月1日 - 1958年(昭和33年)12月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]鳥取県出身。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1912年(明治45年)5月28日、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第3連隊付となる。陸軍砲工学校高等科を卒業し、1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(第35期)を卒業した。
野戦砲兵第2連隊中隊長、陸軍野戦砲兵学校教官などを経て、1927年(昭和2年)7月から1929年(昭和4年)9月までフランスに駐在した。帰国後、野戦砲兵学校教官を経て、1931年(昭和6年)11月、陸大専攻学生となる。1932年(昭和7年)4月、陸大教官に就任し、次いで野戦砲兵学校教官となり、1935年(昭和10年)12月、砲兵大佐に昇進。野戦砲兵第26連隊長を経て、1939年(昭和14年)3月、陸軍少将に進級し砲兵監部付となる。
1940年(昭和15年)3月、野戦重砲兵第1旅団長に発令され、第3砲兵団長を経て、第8砲兵司令官となり、1941年(昭和16年)10月、陸軍中将となり太平洋戦争を迎えた。1943年(昭和18年)3月、第59師団長に親補され、中国に出征し済南に駐屯した。1945年(昭和20年)3月、第43軍司令官に発令され、済南で終戦を迎え、1947年(昭和22年)12月に復員した。
1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[1]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[3]