英勝寺
英勝寺 | |
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仏殿 | |
所在地 | 神奈川県鎌倉市扇ガ谷1-16-3 |
位置 | 北緯35度19分30.5秒 東経139度32分59.5秒 / 北緯35.325139度 東経139.549861度座標: 北緯35度19分30.5秒 東経139度32分59.5秒 / 北緯35.325139度 東経139.549861度 |
山号 | 東光山[1] |
宗派 | 浄土宗[2] |
本尊 | 阿弥陀三尊像 |
創建年 | 寛永13年(1636年) |
開山 | 玉峯清因尼[2] |
開基 | 英勝院尼[3] |
正式名 | 東光山英勝寺 |
札所等 | 東国花の寺百ヶ寺 鎌倉6番 |
文化財 | 仏殿など建造物5棟、阿弥陀如来及両脇侍像龕(国の重要文化財) |
法人番号 | 7021005001842 |
英勝寺(えいしょうじ)は、神奈川県鎌倉市扇ガ谷にある浄土宗の寺院であり、現在、鎌倉唯一の尼寺である[4]。山号は東光山。寺域は、開基英勝院尼の祖先であり、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌邸跡地とされる[5]。
東国花の寺百ヶ寺鎌倉6番札所。
歴史
[編集]徳川家康の側室で、太田道灌4代の太田康資の娘とされるお勝の方は、家康との間に生まれた市姫が幼くして亡くなった後、家康の命により、後に初代水戸藩主となった徳川頼房の養母を務めた。家康の死後は落飾して英勝院と称したが、その後、3代将軍家光より父祖の地である扇ガ谷の地を賜り、英勝寺を創建した。
創建にあたっては、徳川頼房の娘・小良姫を7歳の時に玉峯清因と名付け得度させ、これを門主に迎え開山とした。英勝院尼は寛永19年(1642年)没し、英勝寺裏山に葬られた。寛永14年(または15年)に寺領朱印地として池子村(現逗子市池子)420石を与えられたほか、裏山にあたる源氏山(旗立山)も与えられている。
創建の経緯から、その後も代々の住持は水戸家の姫が務め、このため英勝寺は「水戸御殿」や「水戸の尼寺」とも呼ばれた。高貴な姫である住持は人前に出ることはなく、折々の法要は芝増上寺や、鎌倉材木座光明寺の僧が勤めていたという。
しかし明治維新を機に水戸家からの住持は絶え、寺勢は衰えた。その後、明治28年(1895年)に松平家より住持を迎え、さらに大正8年(1919年)以降は東京青山善光寺より住職を招請し、今日に至る。
大正12年(1923年)の関東大震災では山門、庫裏、蔵が倒壊するなど大きな被害を受け、山門はそのまま鎌倉市内山王ヶ谷(小町3丁目)の資産家に売却されたが、有志による復興事業により旧地の礎石上に復興され、2011年5月16日に落慶式が行われた。
水戸徳川家からの歴代住持
[編集]- 開山 - 清因尼
- 第2代 - 清山尼
- 第3代 - 清玉尼
- 第4代 - 清薫尼
- 第5代 - 清月尼
- 第6代 - 清吟尼
この後、約10年間住持がなかった。
- 第7代 - 清端尼
境内
[編集]仏殿、山門、鐘楼は寛永20年(1643年)の建立。祠堂、祠堂門も同じ頃の建立と推定され、5棟が国の重要文化財に一括指定されている。各建物は本格的な禅宗様になり、仏殿、山門、鐘楼は屋根を反りのない直線で構成する点に共通点がみられる。[6]
- 仏殿 - 方三間、裳階付の禅宗様仏堂。屋根は寄棟造、瓦棒銅板葺き。棟札には寛永13年(1636年)に英勝院が建立とあるが、殿内梁牌には「寛永二十年八月 正三位権中納言源朝臣頼房敬立」の銘があり、当初英勝院が建立し、これを徳川頼房が現在の形に改築したものと考えられる。扁額は後陽成天皇の弟である曼殊院良恕法親王の揮毫。粽(ちまき)付きの円柱、貫(ぬき)の多用、詰組の組物、桟唐戸、花頭窓、石敷きの床など本格的な禅宗様になる。ただし、屋根の隅棟や軒先の線に反りがなく、屋根の形を直線のみで構成するのは独特の意匠である。軒下の蟇股は十二支の彫刻で飾る。堂内は身舎小壁に瑞鳥、天井に迦陵頻伽の彩絵を施すほか、水戸徳川家の三つ葉葵、太田家の桔梗などの装飾が施されている。
- 本尊 - 仏殿内部の本尊、阿弥陀三尊像は徳川家光の寄進。
- 祠堂 - 宝形造、銅瓦葺き。方三間。英勝院の位牌を祀る建物で、徳川頼房の子、徳川光圀によって建立されたと言われる。内外は日光東照宮を思わせる鮮やかな彩色装飾が施されている。現在、祠堂は保護のため外側をさや堂によって覆われている。
- 祠堂門(唐門) - 平唐門、銅瓦葺き。祠堂に至る石段下の小門で、祠堂と共に建てられたと考えられる。欄間には精巧な牡丹等の透彫りが施されている。
- 鐘楼 - 入母屋造、瓦棒銅板葺き。近世の鎌倉では唯一とされる袴腰形式の鐘楼で、梵鐘は寛永20年の林羅山撰文の銘を持つ。
- 山門 - 三間一戸二重門。屋根は入母屋造、瓦棒銅板葺き。上層には釈迦如来と十六羅漢像を安置する。英勝院尼一周忌の直前に、水戸光圀の兄である高松藩主松平頼重により造営され、「奉敬立相州英勝寺山門 従四位下侍従源頼重朝臣」の棟札を持つ。関東大震災後売却され鎌倉市小町の私有地に移築されたが、2011年、旧部材を用いて復興された。
- 阿仏尼卵塔-十六夜日記の作者、阿仏尼の墓と伝えられる。もともと英勝寺境内だが、現在は英勝寺の塀を北鎌倉方面に越えた崖下のやぐら内にある。なお、阿仏尼の息子である冷泉為相の墓も、近隣の浄光明寺境内にある。
- 智岸寺稲荷-阿仏尼卵塔の隣に祀られている稲荷社。
- 太田道灌の墓 - 北鎌倉から源氏山に抜けるハイキングコースの途中にある。文政9年(1826年)に、英勝寺住職が太田道灌の墓を再建したもの。
- 鐘楼
- 祠堂
- 祠堂門
- 山門
- 山門細部
文化財
[編集]重要文化財
[編集]- 建造物
- 英勝寺 (5棟一括指定) - 指定年月日:2013年(平成25年)8月7日[7][8][9][10][11]。
- 仏殿(附:棟札4枚、扁額1面、梁牌2枚)
- 山門(附:棟札2枚、扁額2面)
- 鐘楼
- 祠堂(附:英勝院墓)
- 祠堂門
- 彫刻
鎌倉市指定文化財
[編集]- 絵画
- 絹本裏箔金地墨画 竜虎図六曲屏風 1双 - 指定年月日:1973年(昭和48年)10月12日[13]。
- 絹本著色 南都八景図 1帖 - 指定年月日:2013年(平25年)3月12日[14]。
- 紙本著色 善光寺縁起絵巻 5巻 - 指定年月日:2020年(令和2年)2月18日[14]。
- 彫刻
- 天然記念物
交通
[編集]関連項目
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 仏像をおさめる厨子
出典
[編集]- ^ 新編鎌倉志 1915, p. 84.
- ^ a b 新編相模国風土記稿 扇ガ谷村 英勝寺.
- ^ 新編鎌倉志 1915, pp. 84–85.
- ^ 『鎌倉の寺 小事典』かまくら春秋社、2001年6月27日、66頁。ISBN 4774001732。
- ^ 新編鎌倉志 1915, p. 85.
- ^ 「新指定の文化財」『月刊文化財』598号、第一法規、2013、pp.9 - 12
- ^ “仏殿 / 英勝寺 / 国宝・重要文化財(建造物)”. 国指定文化財等データベース / 文化庁. 2022年6月16日閲覧。
- ^ “山門 / 英勝寺 / 国宝・重要文化財(建造物)”. 国指定文化財等データベース / 文化庁. 2022年6月16日閲覧。
- ^ “鐘楼 / 英勝寺 / 国宝・重要文化財(建造物)”. 国指定文化財等データベース / 文化庁. 2022年6月16日閲覧。
- ^ “祠堂 / 英勝寺 / 国宝・重要文化財(建造物)”. 国指定文化財等データベース / 文化庁. 2022年6月16日閲覧。
- ^ “祠堂門 / 英勝寺 / 国宝・重要文化財(建造物)”. 国指定文化財等データベース / 文化庁. 2022年6月16日閲覧。
- ^ a b “木造阿弥陀如来及両脇侍像龕 / 国宝・重要文化財(美術品)”. 国指定文化財等データベース / 文化庁. 2022年6月16日閲覧。
- ^ “絵画 / 鎌倉市指定文化財一覧表” (PDF). 鎌倉市役所教育文化財部文化財課. p. 11. 2022年6月16日閲覧。
- ^ a b “絵画 / 鎌倉市指定文化財一覧表” (PDF). 鎌倉市役所教育文化財部文化財課. p. 12. 2022年6月16日閲覧。
- ^ a b “彫刻 / 鎌倉市指定文化財一覧表” (PDF). 鎌倉市役所教育文化財部文化財課. p. 18. 2022年6月16日閲覧。
- ^ a b “天然記念物 / 鎌倉市指定文化財一覧表” (PDF). 鎌倉市役所教育文化財部文化財課. p. 47. 2022年6月16日閲覧。
参考文献
[編集]- 東光山 英勝寺 しおり(英勝寺発行パンフレット)
- 『東光山英勝寺御用留』(小丸俊雄,英勝寺,1973年)
- 「新指定の文化財」『月刊文化財』598号、第一法規、2013年
- 河井恒久 等編 編「巻之四 英勝寺」『新編鎌倉志』 第5冊、大日本地誌大系刊行会〈大日本地誌大系〉、1915年、84-88頁。NDLJP:952770/57。
- 「山之内庄扇ガ谷村英勝寺」『大日本地誌大系』 第39巻新編相模国風土記稿4巻之89村里部鎌倉郡巻之21、雄山閣、1932年8月、335-336頁。NDLJP:1179229/171。
外部リンク
[編集]- 英勝寺 仏殿 - 文化遺産オンライン
- 英勝寺 - 鎌倉市観光協会
- 英勝寺 - 全国善光寺会
- 英勝寺山門復興事業呼びかけ