落合忠吉
落合 忠吉 | |
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生誕 | 1889年6月30日 日本 栃木県 |
死没 | 1965年6月19日(75歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1911年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
落合 忠吉(おちあい ちゅうきち、1889年(明治22年)6月30日[1] - 1965年(昭和40年)6月19日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級[2]
経歴
[編集]1889年(明治22年)に栃木県で生まれた[1]。陸軍士官学校第23期、陸軍大学校第34期卒業[3]。1935年(昭和10年)12月に陸軍輜重兵大佐に進級し[2]、輜重兵第7大隊長に就任した[2]。1936年(昭和11年)6月1日に輜重兵第7連隊長に転じ[2]、8月1日に近衛師団兵器部長[2]、1937年(昭和12年)8月に北支那方面軍直轄兵站参謀長を経て[2]、1938年(昭和13年)7月に陸軍自動車学校幹事に就任した[2]。
1939年(昭和14年)3月9日に陸軍少将に進級[2]、4月8日に北支那方面軍兵器部長に転じ[1]、1940年(昭和15年)10月に陸軍自動車学校長に就任した[1]。1941年(昭和16年)10月15日に陸軍中将に進級し[2]、陸軍機甲整備学校長に着任[1]。1942年(昭和17年)4月に輜重兵監兼大本営陸軍幕僚附となり[1][4]、1944年(昭和19年)3月20日に留守第7師団長を経て[1]、4月1日に留守第7師団を改編して編成された第77師団長に親補された[1][5]。1945年(昭和20年)5月23日に北部軍管区司令部附となり[6]、6月16日に輜重兵監兼大本営陸軍幕僚附に転補された[7]。
1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[8]。
栄典
[編集]- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[9]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i 福川 2001, 190頁.
- ^ a b c d e f g h i 外山 1981, 294頁.
- ^ 福川 2001, 191頁.
- ^ 「第54号 昭和19年3月20日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120905400
- ^ 「第60号 昭和19年4月1日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120906000
- ^ 「第118号 昭和20年5月24日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120942900
- ^ 「第141号 昭和20年6月20日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120961300
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年一月三十一日 仮指定者」210頁。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
[編集]- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。