落合豊三郎
落合 豐三郞 | |
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生誕 | 1861年4月7日 江戸 |
死没 | 1934年3月31日(72歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1880年 - 1914年 |
最終階級 | 中将 |
墓所 | 青山霊園1ロ7-7 |
落合 豊三郎(おちあい とよさぶろう、旧字体:落合 豐三郞、文久元年2月28日[1][2](1861年4月7日) - 1934年(昭和9年)3月31日[1][2])は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]松江藩士・落合鍬蔵の三男として江戸で生まれる[1]。陸軍幼年学校を経て、1879年(明治12年)12月、工兵少尉に任官[1][3]。1880年(明治13年)12月、陸軍士官学校(旧3期)工兵科を卒業[1]。1886年(明治19年)12月、陸軍大学校(2期)を優等で卒業した[1][4]。
参謀本部第3局第1課員、参謀本部第1局員、陸大教官、ドイツ公使館付などを経て、1894年(明治27年)9月、第2軍参謀に発令され日清戦争に出征[1][2][4]。その後、陸大教官、イタリア公使館付、参謀本部第5部長、兼中部都督部参謀長、兼参謀本部第4部長などを経て、1903年(明治36年)5月、陸軍少将に進級した[1][4]。
日露戦争では、第2軍参謀長として出征した[2]。その際、部下の由比光衛参謀副長と対立し、由比は奉天会戦直前に第8師団参謀長に転出した。以後、韓国駐剳軍参謀長、満州軍参謀、同軍総兵站監部参謀長、関東総督府陸軍参謀長、第1師団司令部付、交通兵旅団長、工兵監などを歴任し、1910年(明治43年)3月、陸軍中将に昇進[1][2][4]。1914年(大正3年)5月、東京湾要塞司令官となり翌月に待命[1][4]。同年8月、予備役に編入され[2][4]、1924年(大正13年)4月に後備役となった[1]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1895年(明治28年)
- 9月20日 - 単光旭日章・功四級金鵄勲章[6]
- 11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[7]
- 1896年(明治29年)11月25日 - 勲五等瑞宝章[8]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功二級金鵄勲章、勲二等旭日重光章、明治三十七八年従軍記章[9]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[10]
親族
[編集]著書
[編集]- 『孫子例解』軍事教育会、1917年。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本陸海軍総合事典』第2版、43頁。
- ^ a b c d e f 『日本陸軍将官辞典』191頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』57、59頁。
- ^ a b c d e f 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』59頁。
- ^ 『官報』第627号「叙任及辞令」1914年9月2日。
- ^ 『官報』第3671号「叙任及辞令」1895年9月21日。
- ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
- ^ 『官報』第4027号「叙任及辞令」1896年11月30日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
参考文献
[編集]- 岡崎清『落合豊三郎と孫子の兵法』正堂会、1995年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
軍職 | ||
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先代 上原勇作 | 工兵監 第5代:1908年11月21日 - 1914年5月11日 | 次代 近野鳩三 |
先代 松本鼎 | 東京湾要塞司令官 第15代:1915年5月11日 - 同6月2日 | 次代 牧野淸人 |