貞永信義
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選手情報 | |||||||||||||||
フルネーム | さだなが のぶよし | ||||||||||||||
ラテン文字 | Nobuyoshi Sadanaga | ||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||
種目 | 長距離走・マラソン | ||||||||||||||
生年月日 | 1929年2月7日 | ||||||||||||||
出身地 | 山口県 | ||||||||||||||
没年月日 | 2003年2月11日(74歳没) | ||||||||||||||
コーチ | カネボウ陸上競技部 | ||||||||||||||
自己ベスト | |||||||||||||||
マラソン | 2時間19分52秒 | ||||||||||||||
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貞永 信義(さだなが のぶよし、1929年2月7日 - 2003年2月11日)は、日本の陸上競技選手、陸上指導者。現役時代の専門は長距離走。
来歴
[編集]19歳で青年団の駅伝競技に出た際に区間を終える直前に抜かれた悔しさから陸上競技に取り組む[1]。1950年にカネボウに入社し、カネボウ陸上競技部(現・花王陸上競技部)に所属した[1]。
1957年に第6回別府大分毎日マラソンで優勝[1]。1958年には、アジア競技大会(東京)のマラソンで銅メダルを獲得し、栃木県をコースとしていた第12回朝日国際マラソンでは、3年前に優勝したフィンランドのヴェイッコ・カルボネンをゴールの競技場での競り合いで抜き、2時間24分01秒のタイムで初優勝した[2]。
1960年ローマオリンピックのマラソン代表に選ばれたが、本番では2時間35分11秒のタイムで46位に終わる[3]。
生涯で75回フルマラソンに出場し[1]、74回完走した[4]。46歳まで現役を続けた[4]。その傍ら1963年にカネボウ陸上競技部監督に就任し、伊藤国光・早田俊幸・鎌田俊明らを指導した[1][4]。
1970年に始まった防府読売マラソンには創設から関与し、大会役員などを務める一方で第1回には10キロ壮年の部、第5回にはフルマラソンの部にそれぞれ出場し、後者では2時間33分33秒のタイムで29位になっている[4][5]。
防府市の貞永のもとには、大韓民国の長距離選手がしばしば合宿に訪れた[6]。1992年バルセロナオリンピック男子マラソン金メダリストの黄永祚もその一人で、オリンピックで優勝した際に黄のコーチは「(優勝の)秘密なんかありません。貞永さんに教えてもらったんですから」とコメントした[6]。
2003年2月11日、防府市内の自宅近くにある温泉で入浴中に倒れ、病院に搬送されたが急性心臓病により死去[1][4]。
防府市の市内一周駅伝競走大会と同時に開催される中学生を対象に行われる駅伝大会は[7]、防府市立右田中学校出身[8]の貞永の名を冠して「貞永杯中学校駅伝競走大会」と命名されている[9]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g “貞永信義 ローマ五輪のマラソン代表、死去”. 時事通信. (2003-02-??) 2019年10月12日閲覧。
- ^ 第12回大会 - 福岡国際マラソンプレーバック
- ^ “Nobuyoshi Sadanaga Olympic Results”. Sports Reference LLC. 2020年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年5月3日閲覧。
- ^ a b c d e 「貞永信義さん(ローマ五輪マラソン代表・カネボウ前監督)死去」読売新聞大阪版2003年2月12日朝刊31頁
- ^ 「駆け抜けて40年 (2)」読売新聞西部版2009年11月27日朝刊22頁
- ^ a b 武田薫『マラソンと日本人』朝日新聞出版、2014年、p.258
- ^ 第76回防府市内一周駅伝競走大会兼第21回貞永杯中学校駅伝競走大会の結果をお知らせします - 防府市公式ウェブサイト
- ^ 防府市立右田中学校 学校だより 平成31年度1月号 - 防府市立右田中学校公式ウェブサイト
- ^ 貞永杯中学校駅伝競走大会実施要項(第77回市内一周駅伝競走大会兼第22回貞永杯中学校駅伝競走大会の参加申込を開始します アーカイブ 2019年10月22日 - ウェイバックマシン) - 防府市公式ウェブサイト