鈴木貫一

すずき かんいち

鈴木 貫一
三の丸尚蔵館所蔵『人物写真帖』「外務二等書記官従六位鈴木貫一 滋賀県士族 三十九歳」
生誕 天保14年2月12日1843年3月12日
近江国犬上郡彦根上片原(滋賀県彦根市立花町)
洗礼 慶応4年3月13日1868年4月5日
死没 1914年大正3年)6月29日
京都府愛宕郡田中村京都市左京区田中地区)
墓地 彦根市大雲寺
住居 旧鈴木屋敷長屋門(彦根市指定文化財)
国籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
別名 重恭(諱)、留五郎・五郎八・権十郎(通称)[1]
出身校 バラ塾サンフランシスコシティー・カレッジ
影響を受けたもの ジェームス・ハミルトン・バラ鮫島尚信
影響を与えたもの 下田歌子
宗教 プロテスタント曹洞宗
罪名 監守自盜罪(旧刑法第289条)
刑罰 軽懲役7年
配偶者 寿満
子供 鈴木省三(養子)
鈴木重用(実父)、鈴木重戚(兄・養父)
親戚 武藤本時(義父)
受賞 レジオンドヌール勲章フランス)、レオポルド勲章英語版ベルギー
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鈴木 貫一(すずき かんいち[2]天保14年2月12日1843年3月12日) - 1914年大正3年)6月29日)は、明治時代の外交官。彦根藩出身。幕末横浜ジェームス・バラ英語を学び、キリスト教に入信した。サンフランシスコに留学後、太政官左院視察団としてパリに渡り、在フランス日本公使館に勤めたが、公金を横領して帰国服役した。出獄後仏教に転向し、故郷彦根で金亀育児院を経営した。

生涯

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彦根藩

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天保14年(1843年)2月12日、彦根藩鈴木重用の四男として生まれた[1]嘉永4年(1851年)4月6日、兄鈴木重戚の病気によりその養子として跡式を相続した[3]。11月12日、定年未満で出仕したとして叱りを受け、22日許された[3]。嘉永5年(1852年)1月11日、新知300石を受けた[3]安政3年(1856年)1月22日、五郎八から権十郎に改名した[3]

度々江戸に赴任し、井伊直弼供方使番・側供、井伊直憲宿供等として近侍した[4]文久2年(1862年)、和宮婚礼謝使として直憲に従い上京した[3]元治元年(1864年)6月1日、母衣[3]。7月19日の禁門の変では朔平門警護に参加した[3]慶応元年(1865年)11月20日、大坂で供方頭を命じられ[3]、21日、直憲に従い第一次長州征伐に出征した[4]

慶応3年(1867年)2月15日、洋学学習のため江戸遊学を命じられ[3]横浜ジェームス・ハミルトン・バラに個人授業を受けた[5]

渡米

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慶応4年(1868年)2月23日、アメリカ合衆国留学を命じられて武役・当役を解かれ、母衣役次席となった[3]。3月13日(4月5日)、横浜39番地水町通り(中区山下町)のバラとディビッド・タムソンの寓居(旧ジェームス・カーティス・ヘボン診療所)で粟津高明と共に洗礼を受けた[6]。妻の病気のため帰郷した後、サンフランシスコに渡り、シティー・カレッジに入学し、学長ビードル (Peter Vrooman Veeder) に聖書を学んだ[7]

明治2年(1869年5月4日)、妻の病気のため帰国し[7]、8月27日、貫一と改称した[3]。明治4年(1871年)1月、大参事谷鉄臣の命で自宅に洋学校を仮開校し、4月19日、アメリカ領事を通じてアメリカ人商人ジョン・ウィリアム・グードメンを雇用した[8]。同年上京すると、学校を子省三と女性教師に託したが、明治5年(1872年)10月廃校した[8]

渡仏

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明治4年(1871年)9月、太政官正院権少外史、明治5年(1872年)1月17日、左院中議生となり[9]、27日、左院視察団として西岡逾明高崎正風小室信夫安川繁成と横浜を出航、1872年(明治5年)3月、フランスに到着し、国務院などの政治制度を視察した[10]。渡欧中[11]、明治5年3月21日(1872年4月28日)付で日本基督公会に転入会した[12]

視察団では会計を担当したが、旅費を預金していた南貞助のナショナル・エージェンシーが倒産して金策に奔走し、胃病を患った[13]。1873年(明治6年)5月から弁理公使鮫島尚信の下で在フランス日本公使館に勤務するようになり[9]、7月に他の視察団が帰国した際にも[14]病気を理由に帰国せず[9]、1874年(明治7年)3月8日、正式に外務三等書記官となった[15]。1877年(明治10年)、パリ万国博覧会の事務を行った[15]

1880年(明治13年)12月4日、尚信が死去すると、5日フランス臨時代理大使に就任し、ベルギースペインポルトガルも兼轄し、井田譲の着任まで務めた[16]。1881年(明治14年)4月1日、パリ国際電気博覧会英語版日本帝国政府委員を命じられた[17]

公金横領

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1876年(明治9年)以来、大蔵省の海外荷為替資金、海軍省文部省の留学生費・予備金などを私的に引き出し、公使館のフランス人職員や病気の酒屋、トルコ人法学生などに金を貸し、自身の交際費などにも流用していた。在イギリス領事館へ送金を命じられた際、預金が不足したため、これを補填するため砂糖相場に投機して失敗すると、1882年(明治15年)4月23日に遺書を遺して失踪し、6月3日に懲戒免職となった[18]。貫一は自殺を試みるもフランス人に制止され、ジュネーブ近辺に潜伏した後、1883年(明治16年)8月パリに戻り、公使館書記生大山綱介に自首し、10月東京軽罪裁判所に護送された[19]

1884年(明治17年)4月10日、監守自盜罪[20]で軽懲役7年を言い渡され、警視庁監獄石川島分署に収監された[21]。1888年(明治21年)8月16日、模範囚として仮出獄し、麹町区の妻の実家武藤本全方で特別監視を受けた[21]

1890年(明治23年)1月19日、横浜海岸教会に転入会したが[22]、フランス駐在時代にキリスト教徒の行いを実見してキリスト教への幻想は薄れており、この後仏教に転向した[23]

元視察団上役高崎正風の仲介で下田歌子にフランス語を教え、1893年(明治26年)にその欧州への女子教育視察旅行に同行した[21]

帰郷

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1898年(明治31年)に彦根へ帰郷し、天草郡御領村芳証寺住職村上宝仙と共に東京福田会育児院を模範として仏教系孤児院滋賀育児院を創立した[24]。1899年(明治32年)頃には医師田口誠之と夜学校を開き、英語・フランス語・ドイツ語を教えた[25]。滋賀育児院は金亀育児院と改名したが、寄付金の募集方法等について悪評が立ち、1910年(明治43年)3月犬上郡長・彦根町長により7名の児童と共に大津市滋賀県育児院に併合された[26]

1914年(大正3年)6月29日、京都府田中村で死去し、彦根町大雲寺に葬られた[27]。法名は義丈貫一居士[27]

栄典

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鈴木家

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穂積三河鈴木氏の一族[26]寛永年間に先祖の鈴木善太夫重本が井伊直孝に出仕して以来、代々彦根藩に仕えた[36]

屋敷は彦根城中堀端上片原にあった[37]彦根市立花町2番10号に文久2年(1862年)築の旧鈴木屋敷長屋門が現存し、1973年(昭和48年)4月28日彦根市指定文化財[38]、2010年(平成22年)2月1日景観重要建造物[39]歴史的風致形成建造物[40]に指定されている。

滋賀大学経済学部附属史料館には、鈴木家・武藤家関係の文書が鈴木正男家文書として所蔵される[41]

脚注

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  1. ^ a b c d 中島 2017, p. 43.
  2. ^ 杉井 1972, pp. 8–9.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 彦根城博物館 1998, p. 178.
  4. ^ a b 中島 2017, p. 44.
  5. ^ 中島 2017, p. 45.
  6. ^ 中島 2017, pp. 45–46.
  7. ^ a b 中島 2017, pp. 46–47.
  8. ^ a b 彦根市 2009, pp. 196–197.
  9. ^ a b c 中島 2017, p. 48.
  10. ^ 松尾 1986, p. 164.
  11. ^ 中島 2017, pp. 48–49.
  12. ^ 小沢 1964, p. 96.
  13. ^ 松尾 1986, pp. 171–172.
  14. ^ 松尾 1986, p. 172.
  15. ^ a b c 杉井 1972, p. 26.
  16. ^ 杉井 1972, p. 33.
  17. ^ a b 杉井 1972, p. 27.
  18. ^ 中島 2017, pp. 49–50.
  19. ^ 中島 2017, p. 50.
  20. ^ 旧刑法第289条「官吏自ラ監守スル所ノ金穀物件ヲ窃取シタル者ハ軽懲役ニ処ス」
  21. ^ a b c 中島 2017, p. 51.
  22. ^ 井上 1983, p. 155.
  23. ^ 中島 2017, pp. 51–52.
  24. ^ 中島 2017, pp. 52–53.
  25. ^ 中島 2017, p. 52.
  26. ^ a b 中島 2017, p. 53.
  27. ^ a b 中島 2017, p. 54.
  28. ^ 杉井 1972, pp. 26–27.
  29. ^ 杉井 1972, p. 35.
  30. ^ a b 彦根城博物館 1998, pp. 175–177.
  31. ^ 彦根城博物館 1998, pp. 177.
  32. ^ a b 中島 2017, p. 56.
  33. ^ a b 彦根城博物館 1998, p. 308.
  34. ^ 中島 2017, p. 47.
  35. ^ 赤井 1927, pp. 3–7.
  36. ^ 彦根城博物館 1998, p. 171.
  37. ^ 彦根御城下惣絵図 - 彦根城博物館
  38. ^ 現在の彦根城”. 彦根市役所 (2017年1月25日). 2018年8月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月19日閲覧。
  39. ^ 景観重要建造物(旧鈴木屋敷長屋門)”. 彦根市 (2015年3月22日). 2018年8月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月19日閲覧。
  40. ^ 歴史的風致形成建造物(旧鈴木屋敷長屋門)”. 彦根市 (2014年5月20日). 2018年5月19日閲覧。[リンク切れ]
  41. ^ 青柳 2009.

参考文献

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  • 彦根城博物館『侍中由緒帳』 第5巻、彦根市教育委員会〈彦根藩史料叢書〉、1998年3月。 
  • 赤井安正『彦根町政秘史』近江実業社、1927年。 
  • 小沢三郎『日本プロテスタント史研究』東海大学出版会、1964年5月。 
  • 杉井六郎「「公会名簿」に見える鈴木貫一について--初期教会形成期の人びとの個別研究」『キリスト教社会問題研究』第20号、同志社大学人文科学研究所キリスト教社会問題研究会、1972年3月、1-39頁、doi:10.14988/pa.2017.0000008290ISSN 04503139NAID 120005636108 
  • 井上平三郎『浜のともしび 横浜海岸教会初期史考』キリスト新聞社〈地方の宣教叢書5〉、1983年12月。 
  • 松尾正人明治初年における左院の西欧視察団」『国際政治』第81号、日本国際政治学会、1986年3月、161-178頁、doi:10.11375/kokusaiseiji1957.81_161NAID 30004302586 
  • 彦根市史編集委員会『新修彦根市史』 第3巻通史編近代、彦根市、2009年1月。 
  • 「鈴木正男家文書目録」『滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要』第42号、滋賀大学経済学部附属史料館、2009年3月、115-123頁、ISSN 02866579NAID 40016696067 
  • 中島一仁「〈論文〉彦根藩士・鈴木貫一とキリスト教」『研究紀要』第50巻、滋賀大学経済学部附属史料館、2017年3月、41-58頁、CRID 1390010457667904384doi:10.24484/sitereports.119381-60034ISSN 0286-6579 

外部リンク

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