銭能訓

銭 能訓
生年月日 1869年
出生地 清の旗 浙江省嘉興府嘉善県
(現:嘉興市嘉善県
没年月日 1924年6月5日
死没地 中華民国の旗 中華民国 京都特別市
(現:北京市
前職 官僚

中華民国の旗 中華民国
国務総理代理・第14代 国務総理
在任期間 1918年10月10日 - 1919年6月13日
大総統 徐世昌

中華民国の旗 中華民国
国務総理代理
在任期間 1918年2月20日 - 1918年3月23日
大総統 馮国璋

中華民国の旗 中華民国
第7代 内務総長
内閣 王士珍内閣
第3次段祺瑞内閣
銭能訓内閣
在任期間 1917年12月1日 - 1919年6月12日
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銭 能訓
職業: 政治家
各種表記
繁体字 錢 能訓
簡体字 钱 能训
拼音 Qián Néngxùn
ラテン字 Ch'ien Neng-hsün
和名表記: せん のうくん
発音転記: チエン ノンシュン
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銭 能訓(せん のうくん、1870年同治9年〉 - 1924年民国13年〉6月5日)は清末民初の政治家。北京政府において国務総理に就任した。幹丞

事跡

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1898年光緒24年)、戊戌科第二甲第18位進士となる。以後、中央・各地方で職歴を重ね、1903年(光緒29年)、監察御丞に昇進した。1904年(光緒30年)より巡警部尚書兼民政部尚書徐世昌の属僚となる。1907年(光緒33年)に徐が東三省総督になると、銭能訓もこれに従って東三省に赴任した。

1910年(宣統2年)、軍機大臣となった徐の推薦により、銭は陝西布政使となる。さらに護理陝西巡撫(護理とは、下位の者が上位の職務を代行すること)となった。辛亥革命が陝西省でも勃発すると、銭はこれを鎮圧できず、革命派に捕虜とされた。その際に、銭は拳銃自殺を図って果たせず、北京へ逃亡した。

中華民国でも、銭能訓は、徐世昌との関係から袁世凱に重用された。1913年民国2年)10月、熊希齢内閣の内務部次長に就任する。1914年(民国3年)4月、蒙古・西蔵・青海三省区の約法会議議員に選出された。同年5月、国務卿兼礼制館総裁に就任した徐を補佐する形で、政事堂右丞兼礼制館副総裁に就任した。1915年(民国4年)10月、署理平政院院長兼文官高等懲戒委員会委員長(翌年4月、正式に平政院院長に就任)に任命された。

1917年(民国6年)12月、王士珍内閣で銭能訓は内務総長に任命された。1918年(民国7年)2月、王が辞任すると、3日間だけではあるが代理国務総理をつとめた。その後、3月の段祺瑞内閣でも内務総長に再任される。10月、徐世昌が大総統に任命されると、銭は再び代理国務総理となる。12月、正式に国務総理(翌年1月、内務総長を兼任)に任命された。

しかし銭能訓は、安徽派直隷派間の対立により、独自の指導力を発揮することは出来なかった。最後は五四運動発生の責任をとらされる形で、就任からわずか半年後の1919年(民国8年)6月に国務総理を罷免された。その後、蘇浙太湖水利工程督弁、外交部顧問を歴任している。

1924年(民国13年)6月5日、京都(現:北京)で病没。享年55。

参考文献

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  • 張樹勇「銭能訓」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第12巻』中華書局、2005年。ISBN 7-101-02993-0 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
湯化竜
内務総長
1917年12月 - 1919年6月
次代
于宝軒
先代
段祺瑞
国務総理
1918年10月 - 1919年6月
(1918年12月まで代理)
次代
龔心湛