錦織幹
錦織 幹(にしきおり かん、1874年(明治7年)12月7日[1] - 1955年(昭和30年)7月28日[2])は、内務官僚。長崎市長。
経歴
[編集]愛媛県出身。 父は判事を務めた錦織義弘・リウの子[3]。 1896年(明治29年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業[1]。1899年(明治32年)に高等文官試験に合格した[1]。内務属、秋田県参事官、鹿児島県参事官、山形県事務官、長崎県港務長、島根県事務官、山梨県内務部長、千葉県内務部長[4]、新潟県内務部長[5]などを歴任した[1]。 1917年(大正6年)に休職となった後は[5]、日本スレートアスフハルト工業株式会社取締役、証券交換所株式会社取締役を務めた[6]。
1922年(大正11年)、長崎市長に選出された[7]。1926年(大正15年)11月10日に退任するまで4年間在職した。正五位勲四等。享年82歳。墓所は多磨霊園[2][3]。
脚注
[編集]- ^ a b c d 人事興信録 1915.
- ^ a b 『歴史が眠る多磨霊園』錦織幹
- ^ a b 長崎大学教育学部教育科学研究報告 第21号
- ^ 「拝観者人名調(部外)(3)」 アジア歴史資料センター Ref.C08020571200
- ^ a b 長崎市制五十年史 p.76 1939.
- ^ 人事興信録 1921.
- ^ 長崎市制五十年史 p.77 1939.
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 『長崎市制五十年史』長崎市、1939年。