長井氏

長井氏(ながいし)は日本氏族のひとつ。著名なものとして、以下の3氏族がある。

  1. 大江朝臣長井氏
  2. 藤原北家利仁流斎藤氏族長井氏
  3. 桓武平氏良文流三浦氏族長井氏

大江姓長井氏

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長井氏
(大江長井氏)
家紋
一文字に三つ星いちもんじにみつぼし
本姓 大江朝臣
家祖 長井時広
種別 武家
主な根拠地 羽前国置賜郡長井荘
支流、分家 備後長井氏(武家)
福原氏(武家)
凡例 / Category:日本の氏族

出羽長井氏

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鎌倉幕府別当大江広元の次男時広を祖に持ち、所領である出羽国置賜郡北西の長井荘山形県長井市)から、長井氏(永井氏)を称した。承久3年(1221年)の承久の乱の際に時広の兄の親広(のちの寒河江氏の祖)が後鳥羽上皇方に味方したため没落し、以後、大江氏の惣領となって繁栄した。後に執権北条氏が台頭してくると接近を図り、評定衆の一人となり、備後国守護 丹後国守護にも代々任じられた。

長井泰秀の代の宝治元年(1247年)に宝治合戦が起き、泰秀は北条氏に味方し長井氏の地位を確立した。一方叔父・毛利季光三浦氏に味方して敗れて、その一族はほぼ滅亡した。泰秀は親族の毛利氏の救済を願って、生き残った毛利経光に越後国佐橋荘と安芸国吉田荘の地頭職の安堵を図るべく奔走した結果、毛利氏は両荘の地頭職を安堵された。建治元年(1275年)京都若宮八幡宮社の再建に当たり、御家人に費用の捻出が求められるが、鎌倉在住の長井氏は北条氏一門(500貫~200貫)、足利氏(200貫)に次いで多い、180貫の費用を提供した[2]。京都に在住した長井泰重の子らは若宮八幡宮社の別当を歴任した[4]

霜月騒動では安達氏との姻戚関係から一時失脚するが、平禅門の乱を機に政権に復帰し寄合衆評定衆引付頭人などを歴任した。その後も長井氏は米沢城を築き置賜郡長井荘地頭職を代々務めた。この頃より置賜郡全域が長井荘、長井郡と呼ばれるようになる[5]

長井広秀(ひろひで)およびその甥・長井挙冬(初め高冬)の代に鎌倉幕府が滅亡した。広秀と挙冬は、幕府の要職を務めていたものの、腐敗する執権北条氏を見限り、後醍醐天皇方についた。しかし後醍醐天皇の建武の新政が、あまりにも公家寄りの現状を無視した政治であったため、関東廂番の一員となっていた広秀と、雑訴決断所の構成員であった挙冬は、朝廷内で武家の代表格となっていた足利尊氏との関係を深めていくようになった。広秀は建武2年(1335年)には、足利氏の執事に就任した。

広秀は尊氏軍の一員として奥州から京都まで各所で活躍したが、本拠地長井荘に隣接する伊達郡伊達氏らは後醍醐天皇方に味方して対立していた。南北朝の戦乱を境に、東北地方では地方領主の権限が非常に強くなり、幕府要職にあり京都や鎌倉に滞在してきた長井氏と、所領にあってその勢力を着々と増していた伊達氏との支配力の差に大きな差が出始めていた。しかし、南北朝の対立は北朝方が有利であり、伊達氏も北朝に転じて長井氏と和解に至った。

正平13年/延文3年4月(1358年)足利尊氏が死去し、その年2代義詮の嫡男[6]として足利義満が産まれる。伊達氏は義満の生母紀良子の妹を伊達政宗 (大膳大夫)の正室として迎え、将軍の義弟として力を蓄えていく。

天授3年(1377年)伊達氏の家督を継いだ政宗は父宗遠と共に、所領の拡大を目指して他領への侵攻を開始した。信夫郡等を支配下に収めた後に、豊かな盆地を抱える置賜郡長井荘にも進出してくるようになった[7]。南朝:天授6年/北朝:康暦2年(1380年)、伊達宗遠は茂庭行朝らを率いて置賜郡に侵入し、長井荘の一部を占拠し、高畠城を長井荘進出の橋頭堡とした。伊達氏の長井荘侵攻に対して、鎌倉公方足利氏満は救援の兵を出すよう近隣の豪族に命じ、長井氏はその支援を受けて、伊達氏を退却させることに成功した。しかし、伊達氏の侵攻は執拗に続き、南朝:元中2年/北朝:至徳2年(1385年)政宗の攻撃によって長井荘を横領され衰退した。

備後長井氏

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鎌倉幕府政所初代別当大江広元の次男長井時広が、鎌倉幕府より備後国守護として任命されたことに始まる。その次男長井泰重がこの所領を受け継ぎさらに京都六波羅へ出仕して周防・備前の守護を得て3か国守護となった。長井頼重貞重も六波羅評定衆として備後守護を務めた。その後、貞重の弟(あるいは泰重の弟泰茂の孫)長井貞頼が継承し足利尊氏に従って播磨、越後、出雲に所領を得た。ただし貞頼の代から建武の新政をへて備後守護職を失い、備後守護岩松氏の傘下となった。子の長井貞広今川貞世(了俊)に従い活躍するが九州で討死した。

長井貞広の死後、養子としていた広世(大江氏庶流毛利元春の五男)が跡を継ぎ、備後から安芸へ本拠を移して福原氏と名乗った。広世は養父の戦功により今川了俊や将軍家から備後長井氏の所領を安堵される。一時毛利氏の惣領も兼任するが甥の毛利光房に毛利氏惣領を継承させ、以後毛利氏への忠勤を果たし有力な支族として存続した。毛利元就の母は広世の孫福原広俊の娘である。幕末に長井時庸(長井雅楽)を出した長井氏はこの福原氏から分かれた一族である。

長門長井氏

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長井貞重の嫡男長井高広は足利直義により長門守護に任命されたが、観応の擾乱により解任された。

武蔵長井氏

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武蔵の長井氏は、出羽長井氏の一族。後述される斎藤氏族長井氏とは、同じ武蔵国内であるが本拠を別にする。

武蔵国多摩郡横山荘東京都八王子市)に拠った横山党建暦3年(1213年)の和田合戦で滅び、横山荘は大江広元に与えられた。後に長井氏の一族が土着し、片倉城を拠点とした。広園寺梵鐘銘文には、応仁2年(1468年)に大江(長井)広房の寄進とある。広房は上杉朝昌女子を正室としていた。戦国時代扇谷上杉氏に仕えたが、大石氏の勢力に押され、永正元年(1504年)の立河原の戦いでは初沢城守将の長井広直が一族郎党の多くと戦死し、以後は衰微したと考えられている。

近世大名永井氏

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徳川家康の家臣である永井直勝が従来の名字を改め武門の名家である大江氏流長井氏の系譜を継承する形で永井家を称した。この時家紋も従来のものから大江氏のものに改められる。

美濃長井氏

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鎌倉時代、長井時広は美濃国茜部荘(旧厚見荘)の地頭でもあり代々これを相続したが、南北朝時代に後醍醐天皇が茜部荘を没収し東大寺に寄進されている[8]。その後、美濃長井氏には長井秀弘が美濃斎藤氏の斎藤妙純の重臣として現れ、明応4年4月(1495年)の船田合戦において厚見郡加納城の守将として活躍した。

なお、美濃長井氏は、守護代の斎藤利永の子利隆を初代とする史料もある[9]。 美濃長井氏の当主長井長弘宗家の斎藤家の没落に乗じて、その配下の西村勘九郎長利斎藤道三の父)が「長井新左衛門尉」と称して、主命で美濃の権力を握った。しかしその後15301533年のわずかな期間に、長井氏(長井利安・長井長弘・長井利隆)らの謎の急死が相次ぎ、新左衛門尉も死去したため、長井家は新左衛門尉の子が継ぐ事になり、その子は「長井規秀」を名乗った。その後、規秀は「斎藤利政」(のちに道三)へと改称して、守護代斎藤家を継いだ。

一族のその後

大江姓長井氏の人物

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長井氏(出羽長井氏)

長井氏(備後守護家)

系図[10]

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大江広元
 
大江親広
 
寒河江氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長井時広1
出羽長井氏
 
泰秀2
 
時秀3
 
宗秀4
 
 
 
 
 
貞秀5
 
挙冬6
 
氏元7
 
氏広8
 
兼広9 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
泰重
備後長井氏
 
頼重
 
貞重
 
高広
 
 
広秀1
武蔵長井氏
 
時春2
 
広房3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
茂重
 
 
貞頼
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
泰元
 
 
田総重広
 
 
運雅
 
上山宗元
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
泰茂2
 
頼茂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
泰経
 
 
頼秀3
 
貞頼4
 
貞広5
 
福原広世6
 
安芸福原氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頼元
 
 
 
 
 
 
那波宗元
 
那波氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
毛利季光
 
毛利氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
海東忠成
 
海東氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
水谷重清
 
水谷氏
 
 


関連項目

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藤原北家利仁流斎藤氏族長井氏

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長井氏
(長井斎藤氏)
本姓 藤原北家利仁流斎藤氏族
家祖 武蔵斎藤氏系
長井正美
美濃斎藤氏系
長井利隆?
種別 武家
出身地 越前国
主な根拠地 武蔵国武蔵斎藤氏系
美濃国美濃斎藤氏系
著名な人物 長井政実(平沢政実)、長井信実
支流、分家 武蔵斎藤氏系
茂庭(鬼庭)氏武家
永井氏[注釈 1]武家
凡例 / Category:日本の氏族

長井氏は、藤原北家利仁流斎藤氏一族である日本氏族

  1. 武蔵斎藤氏と呼ばれる斎藤実盛の系統。本拠とした武蔵国幡羅郡長井荘(現・埼玉県熊谷市[注釈 2]から長井氏を称する。

戦国時代

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長井政実(豊前守)が上杉氏、後に武田氏長井政実の子、長井信実後北条氏に追われて上杉氏徳川家康、後に播磨国に流される。 元亀元年6月武田氏小幡景純より没収した地を倉賀野秀景長井正実に与え、三ツ山城(藤岡市)を安堵された。 長井政実は(平沢豊前守政実)は武蔵御嶽城(埼玉県児玉郡神川町)とされる。

武田氏では武蔵先方衆と呼称される。(武田信玄の家臣団参照)


桓武平氏良文流三浦氏族長井氏

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長井氏平安時代末期、鎌倉時代初期の坂東八平氏の一つ、三浦氏の一族。

三浦義明五男の義季は相模国三浦郡長井郷(神奈川県横須賀市長井)を所領とし、長井氏を称した。

その他

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日本後紀』によれば、延暦24年(805年)に船木王が長井真人賜姓されている。

脚注

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注釈

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  1. ^ 藤原北家魚眼流利仁流齋藤庶流[永井氏]はページがありません。(永井氏は桓武平氏流派のみの説明)
  2. ^ 武蔵長井荘は和田氏の所領となり、和田合戦の後は安達氏が拝領した。

出典

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  1. ^ 寒河江市史編さん委員会 2001, pp. 390–397.
  2. ^ 国立歴史民俗博物館所蔵「造六条八幡新宮用途支配事」[1]
  3. ^ 寒河江市史編さん委員会 2001, p. 398.
  4. ^ 国立歴史民俗博物館所蔵「六条八幡宮別當補任次第」[3]
  5. ^ 長井市史編纂委員会編 1984, p. [要ページ番号].
  6. ^ 臼井 1989, p. 11.
  7. ^ 伊達 1900, pp. 35–37.
  8. ^ 岐阜市編 1980, p. 536, §. 茜部荘をめぐる東大寺と地頭.
  9. ^ 美濃国諸旧記
  10. ^ 内閣文庫『尊卑文脈本大江系図』、新校群書類従『大江系図』

参考文献

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  • 臼井信義 著、日本歴史学会 編『足利義満』(新装)吉川弘文館〈人物叢書〉、1989年4月。ISBN 4642051503NCID BN03383772 
  • 岐阜市編『岐阜市史』 通史編 原始・古代・中世、岐阜市、1980年3月。 NCID BN02679842全国書誌番号:80029338 
  • 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史』 [史料編 2] (大江氏ならびに関係史料)、寒河江市、2001年3月。 NCID BA52392891OCLC 48077251全国書誌番号:20161764 
  • オープンアクセス伊達綱村 編『国立国会図書館デジタルコレクション 伊達正統世次考』 第3、蘆立文助、作並清亮校、作並清亮〈仙台文庫叢書 ; 第10集〉、1900年。全国書誌番号:40017558https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780473 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 長井市史編纂委員会編『長井市史』 第1巻 原始・古代・中世編、長井市、1984年6月。 NCID BN06093815全国書誌番号:85015130 
  • 朝倉直美、「御嶽・三ツ山城主永井氏に関する基礎的考察」、駒沢史学、1988年