陳済棠

陳済棠
Who's Who in China 4th ed. (1931)
プロフィール
出生: 1890年2月12日
光緒16年正月23日)
死去: 1954年民国43年)11月3日
中華民国の旗 中華民国 台湾省台北市
出身地: 清の旗 広東省廉州府防城県
(現:広西チワン族自治区防城港市
職業: 軍人
各種表記
繁体字 陳 濟棠
簡体字 陈 济棠
拼音 Chén Jìtáng
ラテン字 Ch'en Chi-t'ang
和名表記: ちん さいとう
発音転記: チェン ジータン
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陳 済棠(ちん さいとう)は、中華民国の軍人。国民政府国民革命軍)に属し、民国時代に広東省を統治した西南派の一員である。中国国民党内の蔣介石広西派の対立を利用して地歩を確立し、西南軍事委員会委員長、国民党中央執行委員などを歴任した[1]1931年に広東政権(広州国民政府)を樹立し、日中戦争(抗日戦争)勃発直前まで、蔣介石と対立していた。国共の対立では一貫して反共の立場をとった[1]伯南

事跡

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広東軍での台頭

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農民の家庭に生まれる。1907年光緒33年)、広東陸軍小学に入学した。1908年(光緒34年)春、教官の鄧鏗の紹介で中国同盟会に加入した。1912年民国元年)、広東陸軍軍官学校(広東陸軍速成学校)に入学し、翌年に卒業した[1]

1915年(民国4年)12月からの護国戦争第三革命)以降、広東軍において軍歴を重ねる。1923年(民国12年)、劉震寰率いる滇桂軍の第2旅旅長に昇進した。同年7月、李済深が西江善後督弁となると、陳済棠は督弁公署参謀長を兼任し、中国国民党に味方する新桂系李宗仁らを支援した。

1925年(民国14年)7月、広州に国民政府が成立すると、陳済棠は第11師師長に昇進する。1926年(民国15年)には、欽廉警備司令を兼任する。北伐時には後方を固めるなど、広東省と海南島の平定に尽力した。また、陳は反共姿勢が強く、1927年(民国16年)に一時ソ連に視察に赴いたものの、帰国後は蔣介石に対してより強固に反共政策の推進を進言した。1928年の海陸豊ソビエト地区攻撃にも積極的に参加した[1]

その後も、陳済棠は蔣介石を支持して戦歴を重ねた。1929年(民国18年)3月、陳の上司にあたる李済深が蔣との対立の末に軟禁下に置かれると、陳はこれを機に蔣にさらに接近する。陳は討逆軍第8路軍総司令に任命されて広東の軍権を掌握した。1930年(民国19年)の中原大戦でも、李宗仁らの広西軍の背後を衝いて、蔣軍の勝利に貢献した。

陳済棠の広東統治

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広州の市民の住宅問題を解決する、平民宮は1931年の終わりに完成した。

しかし、蔣介石は直系ではない陳済棠に警戒感を解かなかった。しかも、中原大戦後は軍縮を求めてきたため、陳は反感を抱くようになる。1931年(民国20年)、国民党元老の胡漢民が蔣と対立して軟禁下に置かれると、陳は反蔣派の政治家たちに協力して、ついに反蔣の旗幟を掲げる。同年5月には、反蔣派が広州に結集して、非常会議を開催し、南京とは別個の国民政府を樹立した。ただし、まもなく満洲事変が発生したために、南京と広州は決定的な対決を回避するようになる。

陳済棠の広東支配は、1929年(民国18年)から7年に及んだ。この間に陳が行った様々な産業・インフラ・交通の整備・拡充などの政策については評価が高く、広東に安定と発展をもたらした。教育面では孔子崇拝を強化し、「四維八徳」を幅広く宣伝した。その一方で、陳は占星術や風水も信じ、人事や財務にまで影響を及ぼすという事態も招いている。

広東を半独立状態とする陳済棠に対し、蔣介石はしばらくは融和姿勢をとった。このため、陳は中国共産党討伐に協力している。1933年(民国22年)の福建事変でも、陳は蔣を支持して中華共和国を討伐し、これを崩壊させた。

しかし1936年(民国25年)5月、陳済棠は李宗仁らと連合して、安内を攘外に優先させる蔣介石に対し、攘外=抗日を優先すべきと主張して挙兵した(「両広事変」)。これは李宗仁とともに両広に軍事委員会をつくり、みずから委員長となったものである[1]。一方の蔣は切崩し工作を開始し、余漢謀李漢魂といった陳配下の有力軍人を次々と帰順させた。政略で劣勢に立たされた陳は、同年7月に敗北して香港へ逃亡し、さらに欧州へ視察に赴いた[1]。こうして、陳による広東支配は終焉したのである。

晩年

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陳済棠(『最新支那要人伝』1941年)

その後、陳済棠は蔣介石と和解して、1937年(民国26年)9月に帰国した。国共内戦終盤に海南島を守備し、中国人民解放軍への抵抗を目論んだ。しかし、1950年(民国39年)4月、最終的に敗北し台湾に逃亡した。以後、総統府資政中国語版戦略顧問中国語版をつとめている。

1954年(民国43年)11月3日、台北で病没した。享年65(満64歳)。

脚注

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注釈

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出典

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参考文献

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外部リンク

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