高橋茂寿慶
高橋 茂寿慶 | |
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生誕 | 1892年1月30日 日本 新潟県 |
死没 | 1951年2月4日(59歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1913年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
高橋 茂寿慶(高橋 茂壽慶、たかはし もすけ、1892年〈明治25年〉1月30日 - 1951年〈昭和26年〉2月4日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]1913年(大正2年)陸軍士官学校第25期卒業、陸軍砲兵少尉に任官[1][2]。のち1920年(大正9年)陸軍大学校に入校し、1923年(大正12年)同校第35期卒業[1]。
1932年(昭和7年)関東軍参謀、1935年(昭和10年)陸軍大学校研究部主事、1936年(昭和11年)陸軍大学校教官、1937年(昭和12年)陸軍砲兵大佐、1938年(昭和13年)野戦重砲兵第9連隊長を経て、1939年(昭和14年)8月1日に陸軍少将・中支那派遣軍兵器部長に任官し、支那事変に出征した[1][3][4][5][6][7][8]。
ついで同年9月12日に支那派遣軍兵器部長、1940年(昭和15年)8月1日に駐蒙軍参謀長を歴任[1]。 大東亜戦争に入ると、1941年(昭和16年)10月21日に関東軍兵器部長、1943年(昭和18年)3月25日に下関要塞司令官、1944年(昭和19年)8月8日に西部軍司令部附を経て、同年10月26日に陸軍中将に昇進し、関東州警備司令官を務め、翌年の1944年(昭和20年)4月15日に第161師団長に補され、上海にて終戦を迎えた[1]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[9]。
栄典
[編集]- 勲章等
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』427頁。
- ^ 『官報』第425号、大正2年12月26日。
- ^ 『官報』第1783号、昭和7年12月8日。
- ^ 『官報』第2459号、昭和10年3月16日。
- ^ 『官報』第2876号、昭和11年8月3日。
- ^ 『官報』第3175号、昭和12年8月3日。
- ^ 『官報』第3346号、昭和13年3月2日。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』335頁。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」163頁。
- ^ 『官報』第1978号「叙任及辞令」昭和8年8月4日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
[編集]- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。