ヘンリー・セントジョージ・タッカー
ヘンリー・セントジョージ・タッカー(Henry St. George Tucker、1874年7月16日 - 1959年8月8日)は、米国聖公会総裁主教、立教学院総理。神学博士など4つの博士号を持つ[1]。1907年の立教大学(旧制専門学校)の設立に尽力し、現在の立教学院の基礎を築くとともに、大学の校地購入や日本聖公会大阪教区の設立なども中心的推進役として活躍した。宣教や教育に関する基本的姿勢は、日本人の資質を高く評価・信頼し、その育成を図ろうとするものであった。
略歴
[編集]バージニア州リッチモンドの聖ヨハネ教会牧師館で生まれた[2]。父は聖公会聖職(のち主教)、母はワシントン家出身で、アメリカ独立戦争で活躍した曽祖父St. Georgeの名を受け継いだ。ノーフォーク学院とバージニア大学で学んだ後、1897年バージニア神学校に入学。卒業と同時に日本への宣教を決意して1899年10月に来日し、語学研修を経て仙台、弘前の教会で司牧にあたる[3][4]。
1903年、アーサー・ロイドの後任として立教学院総理に就任し、1907年、立教大学(専門学校令による旧制専門学校)の創立、1909年の池袋校地取得など、現在の立教学院の基礎を築いた[3]。元田作之進を初代学長に挙げるなど、責任ある地位を日本人に与えることに務めた。
1912年3月、シドニー・C・パートリッジの後任として京都地方部主教(第2代主教)に選ばれ[3]、大阪教区を新設して日本人主教を任命するなど、関西地区での教勢拡大に大きな業績を残した[2]。
1923年に帰国し、故郷のバージニア神学校牧会神学教授、バージニア教区主教を務めた。1937年に日本を訪問し、6月28日付で「立教大学に関する報告書」を米国聖公会全国協議会に提出した[5]。1938年1月から1946年12月まで第19代米国聖公会総裁主教を務めた(前任者はジェームズ・デウォルフ・ペリー)[3][4]。
タッカーホール
[編集]立教大学池袋キャンパス内に彼の功績を記念して1954年に建てられたタッカーホールがあり、1971年にはホール正面入口脇にタッカー像が立てられた[6]。
大学創設者のチャニング・ウィリアムズが卒業したアメリカ・バージニア州にあるウィリアムズ&メアリー大学の構内にも、立教大学にある建物と同じ名称のタッカーホールがあるが、これはトーマス・ジェファーソン(第3代アメリカ大統領)も学んだバージニア州最高裁判所判事のジョージ・ワイス(アメリカ法律学の父、アメリカ最初の法律学教授)の後継者として同校の法学教授を務めたタッカーの曽祖父であるSt. George Tuckerを記念した建物である[7]。
日本アルプスの開拓者
[編集]タッカーはスポーツマンで登山を好んだ。明治時代に日本アルプスを登る人は極めて稀であったが、タッカーは立教学院理事で聖路加病院院長であるルドルフ・トイスラーとともに、日本アルプスの踏破を幾たびも試みた日本アルプスの開拓者の一人であった。一緒に踏破した山岳ガイドは、「日本近代登山の父」と称されるウォルター・ウェストンを日本アルプスで案内したことで知られる上條嘉門次であると思われる。1903年8月には、タッカーとトイスラーは槍ヶ岳に登山している[8][9]。
主な著書
[編集]- The History of the Episcopal Church in Japan(日本聖公会史、1938年)
- Exploring the Silent Shore of Memory(1951年)
脚注
[編集]- ^ 『立教学院百年史』 221頁
- ^ a b 『来日西洋人名事典』 237頁
- ^ a b c d 『日本キリスト教歴史大事典』 841-842
- ^ a b 『思い出の静かな岸辺を探ねて H.S.タッカー回想録』ヘンリー・セントジョージ・タッカー、松平信久、北條鎮雄 2021年03月 丸善プラネット
- ^ 『立教学院百五十年史』 第一巻、556-559頁
- ^ 立教タイムトラベル 第17回「昭和46年、タッカー主教像建つ」
- ^ William & Mary 『Tucker Hall』
- ^ 立教大学新聞 第205号 1962年12月1日
- ^ 聖路加国際大学『トイスラー小伝』大学史編纂・資料室
参考文献
[編集]- 『日本キリスト教歴史大事典』 教文館、1988年 ISBN 4-7642-4005-X
- 立教学院百年史編纂委員会 『立教学院百年史』 学校法人立教学院、1974年
- 武内博編 『来日西洋人名事典』 日外アソシエーツ、1995年
- 立教学院百五十年史編纂委員会 『立教学院百五十年史』 第一巻、立教大学立教学院史資料センター、2023年