池田徳定

 
池田 徳定
時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代
生誕 嘉永元年11月25日1848年12月20日
死没 明治43年(1910年6月21日
改名 政太郎(幼名)、徳風(初名)→徳定
別名 出雲(通称
戒名 恭德院殿定應義道大居士
墓所 東京都墨田区弘福寺
官位 従五位下、丹後守、内匠頭相模守、子爵
幕府 江戸幕府
因幡国若桜藩
氏族 池田氏
父母 父:池田仲諟、養父:池田清緝
兄弟 清緝徳定徳澄、映子(池田仲建正室)
常子(池田敬三郎長女・池田慶徳養女)
清就、鋹子(池田博愛妻)、定子(松本順了妻)、環子(日野英治妻)、敬子(井上正言妻)、鶴子(池田悦吉妻)、智加子(山田四郎妻)
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池田 徳定(いけだ のりさだ)は、因幡若桜藩(鳥取西館新田藩)の最後の藩主、華族子爵)。

生涯

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嘉永元年(1848年)11月25日、第8代藩主・池田清直の兄・池田仲諟の次男として生まれる。文久2年(1862年)に兄で第9代藩主の清緝が死去したため、その養子として家督を継ぎ、徳風(のりかぜ)と改名する。のち、さらに徳定と改名した。「徳」の字は、義父でもある本家の鳥取藩主・池田慶徳からの偏諱、「定」の字は7代藩主・定保まで用いられていた通字である。

幕末期は佐幕派として御所警備を務め、義父・慶徳の補佐に努め、元治元年(1864年)の禁門の変では慶徳の名代として軍を率いて上洛し、禁門の変にも参加した。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、鳥取藩とともに新政府側に与して伊勢桑名藩と戦った。明治元年(1868年)12月10日、藩名を若桜藩と改名する。明治2年(1869年)6月、戊辰戦争の恩賞として6000両を与えられた。

明治3年(1870年)3月、鳥取藩に合併されて若桜藩は廃藩となった。明治17年(1884年)、華族令により子爵に叙せられる。明治43年(1910年)6月21日に死去した。享年63。

家族

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  • 妻:池田常子(池田敬三郎長女、池田慶徳養女)

子供は常子との間に4女1男

  • 長女:鋹子 - 夫:池田博愛
  • 次女:定子 - 夫:松本順了
  • 三女:環子 - 夫:日野英治
  • 四女:敬子 - 夫:井上正言(旧高岡藩井上家12代、子爵)
  • 五女:鶴子 - 夫:池田鋭吉
  • 六女:智加子 - 夫:山田四郎(陸軍中佐、大久保利貞[1]三男、幼児期に山田家養子)
  • 長男:池田清就(若桜池田家11代、子爵)

脚注

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  1. ^ 大久保利通の従兄弟。
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
若桜池田家初代
1884年 - 1910年
次代
池田清就