滝沢吉三郎
滝沢 吉三郎(たきざわ きちさぶろう、慶応元年(1865年)1月 - 昭和22年(1947年)8月[1])は日本の実業家。瀧澤地業(名)代表社員[2]。東京府平民[3]。小穴製作所、南洋殖産会社各取締役[2]。東京キヤリコ、東京麻絲紡績各監査役[2]。二女富美江は東京大学名誉教授舞出長五郎の妻。
経歴
[編集]当家は累代埼玉県入間郡金子村に住し農業を営み、同地に於ける素封家として知られていた[2]。瀧澤音吉の二男[2]。明治25年(1892年)兄芳三郎方より分家する[2]。
明治23年(1890年)東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、実業界に入り関東石材会社・日本海陸保険会社・三井銀行・三井呉服店・住友銀行に勤務[2]。株式仲買人となったが、明治45年(1912年)これを罷め、日新護謨会社常務取締役に挙げられた[2]。大正10年(1921年)、滝沢地業合名会社を設立し、北海道・台湾・朝鮮で経営に当たった[1]。
人物像
[編集]家族・親族
[編集]滝沢(瀧澤)家
[編集]- 妻・しま(東京、半田庸太郎妹[3])