那須資胤
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天正11年2月11日(1583年4月3日) |
改名 | 森田資胤→那須資胤 |
別名 | 森田次郎[1] |
官位 | 修理大夫[1] |
氏族 | 那須氏→森田氏→那須氏 |
父母 | 父:那須政資、母:大田原資清娘[1] |
兄弟 | 高資、資胤、資郡 |
妻 | 蘆野資豊娘 |
子 | 資晴、牧野顕高、正洞院(佐竹義宣正室) |
那須 資胤(なす すけたね)は、下野国の戦国大名。那須氏20代当主。
生涯
[編集]那須氏18代当主・那須政資の次男として誕生した。森田氏を継いだが、異母兄で19代当主の高資と対立し、一時逐電する。しかし、天文20年(1551年)、高資が芳賀高定の調略により千本資俊に殺害されると、帰参して家督を継いだ。
当初は常陸国の佐竹氏と組み、結城氏や蘆名氏と戦っていたが、弘治元年(1555年)に北条氏康・足利義氏と手を結んだ。
永禄3年(1560年)、佐竹義昭が結城晴綱と争うと蘆名盛氏が晴綱を、資胤は義昭を支援した。3月26日の小田倉の戦いで、資胤は自身が負傷する程の苦戦を強いられ[2]、その際に家臣の大関高増・大田原綱清兄弟を叱責し責任を追及したのを機に、大関氏・大田原氏らとの対立が表面化。資胤は同年5月15日、大関高増の家臣・松本通勝に働きかけ高増の暗殺を謀るも、高増が佐竹義昭と通じ自分を討とうとするのを知ると、興野義重に備えさせた[3]。高増は資胤を排斥するため、佐竹義重の弟・義尚(那須資綱)の擁立を画策する。以後、佐竹義重の援軍を得た高増と永禄6年(1563年)から永禄10年(1567年)まで戦いを繰り返し[4]、烏山城下まで侵攻された事もあったが[5]、いずれも撃退した。永祿9年(1566年)8月24日には、大関高増を支援した佐竹義重の家臣・佐竹義堅と下野神長で戦い大勝している[6]。永禄11年(1568年)、高増・綱清兄弟は、資胤の隠居を条件に和睦した[7]。
元亀元年(1570年)、佐竹義重が下野大山田城を攻め落とすが[8]、元亀3年(1572年)には佐竹氏とも和睦した。この際に資胤の娘と当時3歳の佐竹義宣の婚約を成立させ、武茂地方と茂木地方を佐竹氏に割譲し、那須領に佐竹氏の所領を許す形となった。
天正2年(1574年)には、白河義親の陸奥赤館城を巡って義親と佐竹義重が争った際、蘆名盛氏らと共に義親に助勢する[9][10]。天正6年(1578年)には、佐竹氏を中心に宇都宮氏・結城氏・江戸氏・大掾氏と常陸小川台(現在の茨城県筑西市)で盟約を結び、後北条氏に対抗した。
死去の年については天正14年(1586年)説もある。
脚注
[編集]- ^ a b c 『那須系図』
- ^ 『史料綜覧』第9編之910 494頁
- ^ 『史料綜覧』第9編之910 497頁。
- ^ 『史料綜覧』第9編之910 566頁。
- ^ 『史料綜覧』第9編之910 651頁。
- ^ 『史料綜覧』第9編之910 639頁。
- ^ 『大日本史料』第10編之1 73頁。
- ^ 『大日本史料』第10編之4 714頁。
- ^ 『大日本史料』第10編之21 48頁。
- ^ 『大日本史料』第10編之24 204頁。