エレニオ・エレーラ
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インテル監督時代(1964–65シーズン) | ||||||
名前 | ||||||
本名 | エレニオ・エレーラ・ガビラン Helenio Herrera Gavilán | |||||
ラテン文字 | Helenio Herrera | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | アルゼンチン フランス | |||||
生年月日 | 1910年4月10日 | |||||
出身地 | ブエノスアイレス | |||||
没年月日 | 1997年11月9日(87歳没) | |||||
監督歴 | ||||||
1944-1945 1945-1948 1948-1949 1949-1952 1952 1953 1953-1956 1956-1958 1958-1960 1960-1968 1968-1970 1973-1974 1978-1979 1979-1981 | Puteaux CSM スタッド・フランス レアル・バリャドリード アトレティコ・マドリード CDマラガ デポルティーボ セビージャFC CFベレネンセス FCバルセロナ インテル・ミラノ ASローマ インテル・ミラノ リミニ FCバルセロナ | |||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
エレニオ・エレーラ・ガヴィラン(Helenio Herrera Gavilán、1910年4月10日 - 1997年11月9日)は、アルゼンチン、ブエノスアイレス出身の元サッカー選手、サッカー指導者。あだ名は『魔術師』。幼少期にフランスへ帰化している。
経歴
[編集]現役時代、レッドスター・オリンピックやスタッド・フランス、FCOシャルルビルなどでプレーした彼は、引退後に指導者の道を歩む。
1945年、古巣スタッド・フランスで指揮を執った後、1949年にレアル・バリャドリードの監督となり、アトレティコ・マドリード、CDマラガ、デポルティーボ・ラ・コルーニャ、セビージャFC、CFベレネンセスで監督を務め、特にアトレティコ・マドリードではリーグを連覇した。そして1958年にFCバルセロナの監督に就任し、全盛期にあったレアル・マドリードを抑えてまたもリーグ連覇を達成した。にもかかわらずクラブから解雇を言い渡されたエレーラは、1960年にバルセロナのスター選手であり同年にバロンドールを獲得したルイス・スアレスと共にインテル・ミラノへと移った。
インテル・ミラノでは、カテナチオと呼ばれる守備に秀でた戦術を採り[1]、スクデット3回、チャンピオンズカップ、インターコンチネンタルカップを2連覇する。その強さ、スクデットを5年連続で獲得し、グランデ・トリノと呼ばれた1940年代のトリノFCの中心選手であったヴァレンティーノ・マッツォーラの息子であるサンドロ・マッツォーラが所属していたことから、この時期のインテル・ミラノはグランデ・インテルと呼ばれた。
また、フランス代表のアシスタントコーチ(1946-1948)、スペイン代表(1959-1962)とイタリア代表(1966-1968、フェッルッチオ・ヴァルカレッジとの2頭体制)の監督をクラブチームとの兼任で務めた。
獲得タイトル
[編集]アトレティコ・マドリード
- リーガ・エスパニョーラ(2):1950,1951
FCバルセロナ
- リーガ・エスパニョーラ(2):1959,1960
- コパ・デル・レイ(2):1959,1981
- インターシティーズ・フェアーズカップ(1):1960
インテル
- セリエA(3):1963,1965,1966
- UEFAチャンピオンズカップ(2):1964,1965
- インターコンチネンタルカップ(2):1964,1965
ASローマ
- コッパ・イタリア(1):1969
出典
[編集]- ^ “フロンターレを完封した京都の“カトナチオ””. ジェレミー・ウォーカーのA View From A Brit (2008年4月10日). 2012年8月19日閲覧。