クーパー・T53

クーパー・T53
1960年オランダグランプリでT53を駆るジャック・ブラバム。このレースからブラバムとT53は5連勝する。
カテゴリー F1
コンストラクター クーパー
デザイナー イギリスの旗 オーウェン・マドック英語版
先代 T51英語版
後継 T55英語版
主要諸元
シャシー 鋼管スペースフレーム
サスペンション(前) ダブルウィッシュボーン
サスペンション(後) ダブルウィッシュボーン
全長 3,730 mm[1]
トレッド 前:1,175 mm / 後:1,220 mm[1]
ホイールベース 2,310 mm[1]
エンジン 2.5リッター:
クライマックス FPF
2,462 cc (150.2 cu in)[1]
1.5リッター:
クライマックス FPF Mk.II
1,499 cc (91.5 cu in)
共通仕様:
L4, NA, ミッドエンジン, 縦置き
トランスミッション クーパー製 5速 MT
重量 500 kg
タイヤ ダンロップ
主要成績
チーム イギリスの旗 クーパー
(他、プライベーター多数)
ドライバー オーストラリアの旗 ジャック・ブラバム
ニュージーランドの旗 ブルース・マクラーレン
出走時期 1961年 - 1963年
コンストラクターズタイトル 1
ドライバーズタイトル 1
初戦 1960年アルゼンチングランプリ
出走優勝ポールFラップ
53[注釈 1]534
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クーパー・T53 (Cooper T53) は、クーパーによって開発されたレーシングカーである。

1960年のF1世界選手権において、この車両に乗ったジャック・ブラバムは自身2回目のワールドチャンピオンタイトルを獲得し、クーパーもコンストラクターズタイトルを獲得した(両タイトルとも前年から連覇)。

概要

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1958年にF1においてコンストラクター選手権が設けられ、クーパーは1959年に投入したT51英語版でドライバーとコンストラクターの両選手権を獲得した。

T53はT51と同じく「リアミッドシップ」にエンジンを搭載しており、T53が1960年の両選手権を連覇したことで、F1におけるリアミッドシップレイアウト化の流れは勢いを増すことになった。

T53の車体はT51の正常発展形であり、より低重心化が図られていることが特徴となっている。2.5リッター直列4気筒クライマックス・FPFエンジンは最大243馬力を出力し[1]、新開発された5速ギアボックスを介して後輪を駆動させた。クライマックスエンジンのこの出力は1960年シーズンのライバルであるフェラーリ・246F1に搭載された「ディーノ」エンジンに比べると40馬力ほど劣っていた[1]

1960年シーズンを席巻

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1960年はF1においてはクーパーのみがT53を使用し、ジャック・ブラバムとブルース・マクラーレンの2名のレギュラードライバーで、T53は参戦した7戦で5勝をあげた。これはブラバムによる5連勝によるものである。同年の選手権をクーパーは圧倒し、年間で43ポイントを獲得したブラバムがチャンピオンとなり、年間ランキング2位となったマクラーレン(37ポイント)も3位のスターリング・モス(19ポイント。ロータス)以下に対して大差をつけた。

T53P: 1.5リッター規定・カスタマー仕様

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F1のエンジンの2.5リッター規定は1960年限りで終了し、クーパーは1961年から始まる1.5リッター規定に合わせた新型車両として「T55英語版」を開発した。その一方、1960年シーズンを圧倒したT53にはプライベーターからの購入希望が多数寄せられたため、1.5リッター規定に合わせたT53が製作され、販売面でも成功を収めた。それらのカスタマーT53は区別して後に「T53P」と非公式に通称されるようになる[W 1]。T53はT53Pも含めて16台が製造されたと考えられている[W 2]

「T53P」のエンジンは、コヴェントリー・クライマックスが1.5リッター規定に合わせて開発したFPF Mk.IIが搭載された(2.5リッター仕様との主な違いは「#エンジン」を参照)。

エンジンについては、プライベーターのスクーデリア・セントロ・スード英語版はT51に続いてT53にもマセラティエンジンを搭載してエントリーし、1961年にロレンツォ・バンディーニ、1963年にエルネスト・ブランビラがマセラティエンジンを搭載したT53PでF1に参戦した。そのほか、1962年にはマイク・ハリス英語版がアルファロメオエンジンを搭載して参戦した。

その後のクーパー

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2.5リッター規定最終年となった1960年シーズンを席巻したクーパーだったが、F1における栄光はこの年までだった[2]。クーパーのミッドシップ革命によって刺激を受けたことで、1960年代のF1ではチーム・ロータスをはじめとする他のイギリスのコンストラクターが台頭して技術的な進歩が急速に進み、それについていくことができなくなったクーパーは成績が下降していき、1969年末にF1から撤退した[2]

車両の特徴

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先代「T51」の後部。車体後部を板状のリーフスプリングで支持していることがわかる。
T53。車体後部の支持がコイル状のばねによるものに変更されている。

先代のT51よりも低重心化が図られていることから、T53には「ローライン」(ローライン・クーパー)という異名が付けられた[W 1]。クライマックス・FPFエンジンはT51より1インチ低く搭載され、ドライバーの着座姿勢も後傾したものになっている[W 1]。足回りも、クーパーは、(1946年以来)長らくリアサスペンションのダンパーに横置きリーフ・スプリングを使用していたが、それをコイル・スプリングに変更し、低くワイドな車を製作した[2]

ギアボックスはT51では4速(シトロエン・ERSA)だったが、T53ではクーパー製の5速のギアボックスが搭載された[W 1]。これはオーウェン・マドック英語版が設計し、イギリスのジャック・ナイト・モータースポーツ英語版が製造したものである[W 1]

T53はリアエンジンであることから他チームのフロントエンジンの車両よりも車体前部の形状が洗練されており、高速サーキットのシルバーストンランスモンツァで優位性を持ったと言われている。

エンジン

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2.5リッター仕様 1.5リッター仕様
FPF (1960年型) FPF Mk.II (1961年)
形式 直列4気筒
排気量 2,497 cc 1,499 cc
ボアサイズ 94 mm x 90 mm
(3.70 x 3.54")
82 mm x 71 mm
(3.23 x 2.80")
出力 239馬力
(178 kW) @ 6,750 rpm
151馬力
(113 kW) @ 8,500 rpm

F1における成績

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(key)(太字ポールポジション斜体はファステストラップ)

チーム エンジン ドライバー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 ポイント 順位
1960年 クーパー・カー・カンパニー クライマックス FPF 2.5 L4 ARG
アルゼンチンの旗
MON
モナコの旗
500
アメリカ合衆国の旗
NED
オランダの旗
BEL
ベルギーの旗
FRA
フランスの旗
GBR
イギリスの旗
POR
ポルトガルの旗
ITA
イタリアの旗
USA
アメリカ合衆国の旗
48 (58)* 1st*
オーストラリアの旗 ジャック・ブラバム DSQ 1 1 1 1 1 4
ニュージーランドの旗 ブルース・マクラーレン 2 Ret 2 3 4 2 3
1961年 ヨーマン・クレジット英語版 クライマックス FPF 1.5 L4 MON
モナコの旗
NED
オランダの旗
BEL
ベルギーの旗
FRA
フランスの旗
GBR
イギリスの旗
GER
ドイツの旗
ITA
イタリアの旗
USA
アメリカ合衆国の旗
14 (18)* 4th*
イギリスの旗 ジョン・サーティース 11 7 5 Ret Ret 5 Ret Ret
イギリスの旗 ロイ・サルヴァドーリ英語版 8 6 10 6 Ret
H&L Motors イギリスの旗 ジャッキー・ルイス英語版 9 Ret Ret 9 4
ジョン・M・ワイアット三世 アメリカ合衆国の旗 ロジャー・ペンスキー 8
キャスナー・モーターレーシング・ディヴィジョン アメリカ合衆国の旗 マステン・グレゴリー英語版 DNQ DNS 10 12 11 DNA
イギリスの旗 イアン・バージェス英語版 12
ハップ・シャープ アメリカ合衆国の旗 ハップ・シャープ英語版 10
ベルナール・コロンブ フランスの旗 ベルナール・コロンブ英語版 Ret NC
モモ アメリカ合衆国の旗 ウォルト・ハンセン英語版 Ret
スクーデリア・セントロ・スード英語版 マセラティ 6-1500 1.5 L4 イタリアの旗 ロレンツォ・バンディーニ Ret 12 Ret 8 0 -
1962年 クーパー・カー・カンパニー クライマックス FPF 1.5 L4 NED
オランダの旗
MON
モナコの旗
BEL
ベルギーの旗
FRA
フランスの旗
GBR
イギリスの旗
GER
ドイツの旗
ITA
イタリアの旗
USA
アメリカ合衆国の旗
RSA
南アフリカの旗
29 (37)* 3rd*
アメリカ合衆国の旗 ティミー・メイヤー英語版 Ret
H&L Motors イギリスの旗 ジャッキー・ルイス 8 Ret 10 Ret
ハップ・シャープ アメリカ合衆国の旗 ハップ・シャープ 11
ベルナール・コロンブ フランスの旗 ベルナール・コロンブ Ret
マイク・ハリス アルファ・ロメオ 1.5 L4 ローデシア・ニヤサランド連邦の旗 マイク・ハリス英語版 Ret 0 -
1963年 スクーデリア・セントロ・スード マセラティ 6-1500 1.5 L4 MON
モナコの旗
BEL
ベルギーの旗
NED
オランダの旗
FRA
フランスの旗
GBR
イギリスの旗
GER
ドイツの旗
ITA
イタリアの旗
USA
アメリカ合衆国の旗
MEX
メキシコの旗
RSA
南アフリカの旗
0 -
イタリアの旗 エルネスト・ブランビラ DNQ
  • * 他の「クーパー・クライマックス」車両によって記録されたポイントも含めた成績。括弧内のポイントは総獲得ポイント。
  • 1960年イタリアGPモンツァ・サーキットのバンクが危険であるとして、クーパーは同じイギリスのロータスBRMとともにボイコットしたため、T53は参戦していない[2]

ホンダが入手した個体

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クーパー・T53
(ホンダが所有する個体)[注釈 2]
ホンダコレクションホール所蔵のクーパー・T53
カテゴリー F1
コンストラクター クーパー
主要諸元
シャシー 車体番号: F1-19-61[W 1]
全長 3,670 mm
全幅 1,470 mm
全高 940 mm
エンジン クライマックス 1,498 cc (91.4 cu in), 水冷, 4ストローク, L4, DOHC, 150馬力以上 @ 7,500 rpm
重量 460 kg
主要成績
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日本の本田技研工業(ホンダ)は、1961年(もしくは1962年)に、1台のクーパー・T53を入手した。この個体はホンダの車両開発を担っている本田技術研究所に送られ、ホンダF1(第1期)が参戦を開始する前の時期に、研究用として役立てられた[3]

概要

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このT53は、ホンダのF1参戦の端緒で重要な役割を果たしたことで知られる。

元々、この車両はF1参戦を目的にして入手されたものではないと説明されている(「#入手の時期と経緯」を参照)。ホンダがF1参戦を決定した後、その成り行きでエンジンの実走テストが必要になったことから、このクーパーを改造してテストベッドとする案が最初に考案された。しかし、ホンダが設計した特殊な横置きV12エンジンを搭載するには大きな改造が必要になることから、ホンダは、このT53を参考にして、同社にとって最初のF1車両となる「RA270」を開発した[3][4]

RA270の基本構造はこのクーパーを見本としているため、車体に鋼管スペースフレームを採用している点はT53もRA270も共通している。エンジンテスト用のRA270にはこれで充分だったが、クーパーの車体も搭載されているクライマックスエンジンも設計思想が古く[注釈 3]、実戦用のRA271の設計の参考にはならなかったと言われている[7][8]。実際に、RA271はマルチチューブラーフレームを採用している点が顕著に異なる。

このクーパーが果たした役割は、設計のサンプルだけに留まらなかった。この個体は、当時の日本では貴重な(おそらく唯一の)F1車両であり[9][注釈 4]、この車両を使ったテスト走行は東村山のテストコース(通産省機械試験所の施設)や1962年に完成したばかりの鈴鹿サーキットで頻繁に行われ、当時のホンダF1の監督である中村良夫は、こうした走行は本物のグランプリカーの操舵感覚やスロットルレスポンスを設計陣が実際に経験して学ぶ上で、とても役に立ったと述懐している[7][10][注釈 5]

そうして、ホンダは1964年にF1に初参戦を果たした。その後もこのクーパー・クライマックスはホンダが所有し[注釈 6]、後にホンダコレクションホールに収められ、今日も現存している。

入手の時期と経緯

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ホンダがこの車両を入手した時期と、入手した経緯については不明瞭な部分が存在する[6]

中村良夫の証言とその矛盾

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ホンダF1の第1期において監督を務めた中村良夫は、この車両はホンダの二輪レーサーであるボブ・マッキンタイヤが四輪レース参戦に向けた練習用として所有していたもので、マッキンタイヤが事故死した後、マッキンタイヤ未亡人を経済的に援助するために購入したと著作の中で何度か記している[3][12][13][6][注釈 7]

この際、二輪チームの実質的なマネージャーだったジム・レッドマン関口久一を介して、マッキンタイヤ未亡人からホンダ側に買い取りの打診が行われたと中村は述べている[14]

中村はこの車両を購入した時期について「1961年暮れ」としているものの[12][13]、マッキンタイヤが事故死したのは1962年8月15日なので、中村の証言は入手の時期もしくは経緯について事実との齟齬がある[6]

他の関係者の証言

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  • RA270の設計者である馬場利次は、ホンダがクーパーを購入したのは中村と同じく「1961年暮れ」としており、クーパーの車体には改造を施しても横置きのRA270Eエンジンを積むことは困難(可能ではあるものの大改造が必要になる)と判断したことから、「1962年11月」にRA270F(RA270の車体)の開発に着手したと語っている[15](馬場はクーパーを入手した経緯については語っていない)。
  • 参戦初期の開発に携わったエンジニアの丸野冨士也は、ホンダはマッキンタイヤ未亡人から1.5リッターのクーパーを購入し、その時期は「エンジンの設計検討を始めて間もない頃」だったと述べている[W 4](年については言及していない[注釈 8])。
  • ジョン・フーゲンホルツがホンダの要請により購入して日本に送ったという証言もある[17][18](「マッキンタイヤ未亡人から購入した」以外の説となる)。

他には、1962年春に購入したという説もあるが[19][注釈 9]、その場合もマッキンタイヤの死去よりは前ということになる。

クーパー・カーズの記録

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ダグ・ナイ英語版が『Cooper Cars』(1983年刊・ISBN 0-85045-488-3)でまとめたクーパー・カーズ社の記録では、1961年12月に「Okura Trading Co.」(大倉商事)を介して、車体番号「F1/19/61」のT53を、1.5リッターのクライマックス・FPFエンジン(エンジンの製造番号は「430/27/1237」)を搭載した状態でホンダに送ったことについての記録があり、その記録には車両の使用目的として「調査とテストのために用いる」旨の記載もあるという[6]。この個体は1961年12月製なので[6][W 1]、新車の状態で日本に送られたことになる[6]

このことを調べた林信次は、中村良夫の言う「マッキンタイヤの死後に入手した」「2.5リッターのT53(キャブレターに不具合を抱えた中古車)」との矛盾を生まない説として、ホンダがT53を2台購入して1台を部品取りのため解体した可能性を指摘している[6][注釈 10]

ジャック・ブラバムの関与

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ジャック・ブラバム(1966年)

中村良夫が述べているマッキンタイヤ未亡人から入手したT53について、マッキンタイヤは生前にこの車両のキャブレター(サイドドラフト・ツインチョーク気化器)に不適切な調整を施していた[13]。それに起因して[13]、ホンダが入手した当初、この車両はエンジンの吹き上がりに不具合があり、本田技術研究所は試行錯誤して再調整したが、問題を解消できずにいた[3]

ホンダがこの車両を入手してからしばらく後[注釈 11]、ホンダがこの車両を購入したことを聞きつけたジャック・ブラバムが日本に立ち寄り、本田技術研究所を初めて訪れた[20][注釈 12]。ホンダ側はこれを幸いとしてブラバムに助力を求め、ブラバムは細部まで知り尽くしている車両でもあったことからすぐさまエンジンの不具合を直してしまい[21]、この車両は実走可能な状態へと修復された[20][3][13]。これも縁となり、ホンダとブラバムは協力関係を構築していくことになる[注釈 13]

仕様

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中村良夫は入手した車両が「2.5リッター」(すなわち1960年仕様)だったことを著書で繰り返し述べている[20][3][12][13][14][注釈 14]。その一方、小林彰太郎による当時の記事[22][注釈 15]、当時のホンダ技術者の一人である丸野冨士也による述懐[W 4]、実物を所蔵しているホンダコレクションホールによる紹介[W 3]、など、中村以外の関係者の記述では、この車両は1961年型で「1.5リッター」の車両[23][W 5]とされることが常である。

クーパーの収集家や研究者の間では、ホンダコレクションホールに展示されている個体(車体番号: F1-19-61)は1961年12月製(T53P)だとされている[W 1]。これはクーパーが1961年末にホンダに送ったという上述車両の車体番号と一致する(ただし保存車両のVINプレートの記載は不明)[6]

脚注

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注釈

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  1. ^ 予選落ちとDNSを含めると56レース。クーパーから出走した分のみでは15レース。
  2. ^ 諸元は出典を特に付したもの以外はホンダコレクションホールが公開している情報[W 3]に基づく。
  3. ^ 1962年に登場したロータス・25コーリン・チャップマンモノコック構造を導入したことを機に、鋼管スペースフレーム構造は(急速に)過去のものとなっていった[5][6]
  4. ^ 1962年当時の『モーターファン』誌(三栄書房)は、このクーパーの輸入について把握しており、「実はこれが、ヨーロッパの本格的レーシングマシンが日本の地に最初の一歩を印した歴史的な事件である」と記している[9](戦前にブガッティ・タイプ35などが輸入された例があり、厳密には正しくない)。
  5. ^ 中村は本田宗一郎はこの車両には関心が薄かったと述べており、東村山のテスト走行にも本田を何度か誘ったが、全く興味を示さなかったという[10]。一方、荒川テストコースで行われた試走では、本田が自らコクピットに乗り込んでいる様子を写した写真も残っており、本田もテスト走行を行った記録がある[11]
  6. ^ この車両は役目を終えた後は本田技術研究所内に置かれていたことから、同所の技術者の述懐にしばしば登場している。
  7. ^ 中村はこのクーパーについて、ホンダのF1参戦の計画とは無関係な購入だったということを強調している[12]
  8. ^ 丸野は言及していないが、RA270Eエンジンの開発が始まったのは「1962年8月」とされている[15][16]。そのため、丸野の話は「マッキンタイヤ未亡人から購入した」という話との明らかな矛盾は生じないことになる。
  9. ^ 第1期のホンダF1を初期から取材して数多くの記事(主に技術記事)を執筆した神田重巳が記しており、「ホンダF-1関係者の古いスクラップとメモ帳」に基づくとしている[19]
  10. ^ 複数台あったというのは林の仮説で、当時のホンダ関係者の証言は確認されていないが、1962年末の『モーターファン』誌には「ホンダがフォミュラIレーサーの研究のためにイギリスから数台の最新型クーパーF1レーサーを輸入した」[9]という記述がある。
  11. ^ 中村良夫は「1962年の春だったと記憶する」と記しているが[20]上記したように入手時期に不明瞭さがあり、時期が異なる可能性がある(1962年春だとマッキンタイヤはまだ存命)。
  12. ^ 当時ヨーロッパではホンダがF1に参戦すると噂されており、この時のブラバムの訪日はその可能性について見定めることが主目的だったと考えられている。
  13. ^ ホンダは第1期F1参戦におけるF2参戦(ホンダF2)でブラバムと組むほか、第2期F1参戦では初期にジャック・ブラバムやロン・トーラナックと再び協働することになる。
  14. ^ 1970年の著作『グランプリ2』で最初の言及が見られ、中村が没する1994年の『ひとりぼっちの風雲児』まで、複数の著作で一貫してそう述べている。
  15. ^ 自動車評論家として知られる小林はホンダF1を取材したジャーナリストの草分けでもあり、ホンダが実際に参戦を開始する前からホンダF1の取材をしており、緒戦の1964年ドイツグランプリやその前月のザントフォールト・サーキットにおけるRA271のシェイクダウンも現地で取材し、記事を著している。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f 世界の自動車15 クーパー ローラ エルヴァ(神田1976)、p.44
  2. ^ a b c d オートスポーツ 1992年1/15&2/1号(No.598)、「歴史に残る名F1マシン - 第3回 1959/1960年型クーパー F1に革命を起こしたミッドシップカー」 pp.112–114
  3. ^ a b c d e f HONDA-F1 '64~'68(1978)、「私の手記・HONDA F1グランプリ」(中村良夫) p.56
  4. ^ F1地上の夢(海老沢1993)、「5」
  5. ^ 世界の自動車15 クーパー ローラ エルヴァ(神田1976)、p.60
  6. ^ a b c d e f g h i F1速報 2020年 CLASSICS スペインGP号、「日の丸F1発進す - 第2回 ホンダに収まったクーパーF1 その出どころの謎」(林信次) pp.40–41
  7. ^ a b グランプリレース(中村1979)、p.81
  8. ^ F1地上の夢(海老沢1993)、「3」
  9. ^ a b c モーターファン 1962年12月増刊 スズカ・レース特集号、「現れるか ホンダ F1」(白井順二) pp.190–191
  10. ^ a b ひとりぼっちの風雲児(中村1994)、p.145
  11. ^ 人間 宗一郎(間瀬1993)、p.128
  12. ^ a b c d グランプリレース(中村1979)、p.80
  13. ^ a b c d e f HONDA F1 1964-1968(中村1984)、「F1プロジェクトの始動」 pp.44–47
  14. ^ a b ひとりぼっちの風雲児(中村1994)、p.143
  15. ^ a b F1倶楽部 Vol.7 ニッポンのF1(1994)、「レースに出場しなかった日本初のF1マシンRA270Fを設計」(馬場利次) p.56
  16. ^ 夢を力に(本田2001)、第二部「レースへの夢」 pp.119–121
  17. ^ RacingOn No.462 シルエットフォーミュラ、「Racing On No.461中記事への見解」(ジョン・フーゲンホルツJr.) p.146
  18. ^ F1モデリング Vol.64、「ホンダとフーゲンホルツ~知られざるスーパーマン~」(中島剛彦) pp.30–34
  19. ^ a b オートスポーツ 1973年11/1号(No.139)、「ホンダF-1・最初と最後のマシン」(神田重巳) pp.41–44
  20. ^ a b c d グランプリ 2(中村1970)、p.104
  21. ^ グランプリレース(中村1979)、p.82
  22. ^ オートスポーツ (No.3)、「F-1ホンダ奮戦のあと」(小林彰太郎) pp.46–51
  23. ^ HONDA F1 1964-1968(中村1984)、「ホンダF1の技術」(神田重巳) - 「実験車RA270の構想・開発と機構」 pp.156–172中のp.169
ウェブサイト
  1. ^ a b c d e f g h Allen Brown. “Cooper T53 and T53P” (英語). OldRacingCars.com. 2023年2月23日閲覧。
  2. ^ Allen Brown. “Cooper” (英語). OldRacingCars.com. 2023年2月23日閲覧。
  3. ^ a b クーパー T53 クライマックス”. ホンダコレクションホール. 2023年2月23日閲覧。
  4. ^ a b 丸野冨士也. “12. F1ドライバーのテクニック”. Honda F1の原点とヨーロッパ紀行. 本田技研工業. 2023年2月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月23日閲覧。
  5. ^ ボブ・マッキンタイヤ(Bob McIntyre)”. 「レーシング」の源流. 本田技研工業 (1998年11月15日). 2000年10月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月23日閲覧。

参考資料

[編集]
書籍
雑誌
  • 『モーターファン』
    • 『1962年臨時増刊 オートスポーツ スズカ・レース特集号』三栄書房、1962年12月15日。ASB:AST19621215 
  • 『オートスポーツ』(NCID AA11437582
    • 『モーターファン AUTO-SPORT 3号』三栄書房、1964年5月15日。ASB:AST19641125 
    • 『1973年11/1号 (No.129)』三栄書房、1973年11月1日。ASB:AST19731101 
    • 『1992年1/15&2/1号 (No.598)』三栄書房、1992年2月1日。ASB:AST19920201 
  • 『auto technic』(NCID AA12803620
    • 『別冊 HONDA-F1 '64~'68グランプリレース出場の記録』山海堂、1978年7月5日。 
  • 『Racing On』(NCID AA12806221
  • 『F1速報』(NCID BB22714872
  • 『F1倶楽部』
    • 『1994 Vol.7 ニッポンのF1』双葉社〈双葉社ムック〉、1994年11月18日。ASIN 4575462373 
  • 『F1モデリング』

外部リンク

[編集]