サンチョ6世 (ナバラ王)
サンチョ6世 Sancho VI | |
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ナバラ国王 | |
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在位 | 1150年 - 1194年 |
出生 | 1133年頃 |
死去 | 1194年6月27日 ナバラ王国、パンプローナ |
配偶者 | サンチャ・デ・カスティーリャ |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ヒメノ家 |
王朝 | ヒメノ朝 |
父親 | ガルシア6世 |
母親 | マルガリータ・デ・ライグレ |
サンチョ6世(スペイン語:Sancho VI, 1133年頃 - 1194年6月27日)は、ナバラ王国の国王(在位:1150年 - 1194年)。「賢王」(el Sabio)あるいはサンチョ・ガルセス(Sancho Garces)とも呼ばれる。ガルシア6世と王妃マルガリータ(Margarita de l'Aigle)の息子。
生涯
[編集]1150年に父の後を嗣いで王位に即いた。サンチョ6世は、称号から「パンプローナの」を除いて単に「ナバラ王」を名乗るようになった。1180年にギプスコアの港町サン・セバスティアンにフエロ(特権)を与え、海運・通商を法制化して発展を図った。ナバラはサン・セバスティアンに見られるようにフエロによる都市化が進んだ[1]。
また彼の治世はアラゴン王国やカスティーリャ王国との対立で占められた。1168年にアラゴン王アルフォンソ2世と密約を交わし、バレンシア王兼ムルシア王イブン・マルダニーシュ(通称ローボ王)の領土分割を画策して侵攻したこともあったが[2]、1164年に妻の甥に当たる幼少のカスティーリャ王アルフォンソ8世に狙いをつけ、レオン王フェルナンド2世と結託して東のラ・リオハへ侵入すると、1173年にアラゴン・イングランド王ヘンリー2世の協力を取り付けたアルフォンソ8世に反撃され、同年にカスティーリャが有利になる形で和睦した[3]。
しかし、1190年にカスティーリャに反発したアルフォンソ2世と同盟を結び、翌1191年にポルトガル王サンシュ1世・レオン王アルフォンソ9世を加えた反カスティーリャ同盟を成立させた[4]。また同年、カスティーリャへの対抗から隣接するアキテーヌ公も兼ねていたイングランド王リチャード1世と娘のベレンガリアを結婚させ、リチャード1世からバス=ナヴァール(現在のフランス領バスク)を与えられた[5]。
サンチョ6世は1194年6月27日にパンプローナで死去し、長子サンチョ7世が王位を嗣いだ。
子女
[編集]1157年にカスティーリャ王アルフォンソ7世の王女サンチャと結婚し、以下の子女をもうけた。
- サンチョ7世(1154年 - 1234年) - ナバラ王(1194年 - 1234年)
- フェルナンド
- ラミロ(1228年没) - パンプローナ司教
- ベレンガリア(1165年/1170年 - 1230年) - イングランド王リチャード1世妃
- ブランカ(1177年 - 1229年) - シャンパーニュ伯ティボー3世妃、ナバラ王テオバルド1世の母。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- レイチェル・バード著、狩野美智子訳『ナバラ王国の歴史 山の民バスク民族の国』彩流社、1995年。
- D.W.ローマックス著、林邦夫訳『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』刀水書房、1996年。
- 芝修身『真説レコンキスタ <イスラームVSキリスト教>史観をこえて』書肆心水、2007年。
- 西川和子『スペイン レコンキスタ時代の王たち 中世800年の国盗り物語』彩流社、2016年。