シンガーソングライター

ボブ・ディラン

シンガーソングライター: singer-songwriter)は、音楽家職業名であり、ポピュラー音楽において、自分で作詞作曲を行い歌唱する(本来の意味での自作自演を行う)人を指す[1]。音楽論評などで “SSW” と表記される場合もある。

概要

[編集]

ポピュラー音楽において自ら歌う曲の、作詞作曲編曲も自ら行うことがある)を自分自身で行う歌手を指す。作曲しか行わず編曲を他者に依頼する場合でも、一般的にはシンガーソングライターというのに対し、作詞しかしない場合にはシンガーソングライターとは言わないことが多い(後述)[2][3]。また、自作をしていても、自演曲の中で自作曲の割合が小さい場合には、シンガーソングライターとはいわないことが多く[注釈 1]、逆に 100%自作曲でなくても、自作曲の割合が大きい場合にはシンガーソングライターと呼ぶこともある[2]。 

楽曲の制作方法は、歌手により様々である。先に作曲、後に作詞(「曲先(きょくせん)」や「メロ先」、「はめ込み作詞」等と呼ばれる手法)という手法をとる者もいれば、逆に先に作詞、後に作曲(こちらは「詞先(しせん)」と呼ばれる)する者もいる。作詞・作曲を並行して行う者もいる。

語源と背景

[編集]

「シンガーソングライター」という言葉は、1970年代初頭にアメリカジェームス・テイラーが注目され、続いて英国エルトン・ジョン、アメリカのキャロル・キングなどのめざましい活躍もあって[4]、彼らが「シンガーソングライター」と呼ばれ、それが日本でも普及したもの[5][6][7][8]

元々、ポップ・ミュージック(ポップス)の世界では、英米でも日本でも曲を作ることと歌うことは分業で行われていた[2][9]。英米ではそれらを今日オールディーズなどと称しているが、日本でいえば歌謡曲と、どちらも基本的には分業であった[10]。そこへ自作自演の流れを持ち込んだのはビートルズボブ・ディランらである[2][9][10][11]。1960年代には多くの自作自演のミュージシャンが高い人気を得ていた。にもかかわらず1970年代初頭、あえてアメリカで「シンガー・ソングライター」という呼び名が使われた要因は、「ロック的な狂熱とは縁の薄いパフォーマンスの価値を、歌やソングライティングを強調することで補う必要があったから」とレコード・コレクターズ誌は解説している[12]。英米の「シンガー・ソングライター」は、「大きな夢や怒りではなく、身のまわりの出来事に目を向けた歌を作って歌う」「誠実な自己告白的の歌を歌う」というような意味合いがあった[12]ローリング・ストーン誌のロック史では、「シンガー・ソングライター」は映画『卒業』のダスティン・ホフマンのように、スターらしからぬスターが誕生したニューシネマの現象と関連づけて語られているという[12]。本来の「シンガー・ソングライター」という言葉には「ロックのアンチテーゼ」のような意味があった。しかしこの言葉が日本に輸入された当時は、まだ日本でロックはメジャーになっておらず、日本での「シンガー・ソングライター」には歌謡曲のアンチテーゼとしての役割が最初は与えられていたものと考えられる[2][13]

欧米での歴史

[編集]

1960年代後半から1970年代前半にかけてのロック界やソウルでは社会的なメッセージ性の強いヒット曲が多く生まれた[14]。1970年にジェームズ・テイラーはアルバム『スウィート・ベイビー・ジェームス』を発表したが、このアルバムはシンガーソングライターによるオリジナルバージョンがヒットしたことで当時としては珍しい例であり注目を浴びた[14][15]。また、『ファイアー・アンド・レイン』はジェームズ・テイラーのごくごく私的な体験を告白した歌詞の曲だったが、『スウィート・ベイビー・ジェームス』に収録されたのちシングルカットされ、1970年秋に大ヒットとなりこれがシンガーソングライターブームの幕開けと言われている[14][15]

また、フォークブーム期であった1960年代末にはカナダのシンガーソングライターであるゴードン・ライトフット、レナード・コーエン、イアン&シルビア、トム・ラッシュらも米国に進出した[16]

日本での歴史

[編集]

前史

[編集]

日本においても、自作曲を自ら歌う歌手は古くからいた。作詞家&演者だった[17]添田唖蝉坊なども広義ではシンガーソングライターといえるかも知れない。

1930年代には演歌師の石田一松自作自演した「酋長の娘」をヒットさせた。広義における本格的なシンガーソングライターの嚆矢と言われる林伊佐緒は1930年代から「出征兵士を送る歌」など、自身の曲の大半を自ら作曲・歌唱した。1950年代には大橋節夫が自作曲を歌いヒットしハワイアンブームの先駆となった他、1958年には「ロカビリー3人男」と言われた平尾昌晃も自作曲「ミヨちゃん」をヒットさせた[18][19]

1960年代には森繁久彌加山雄三荒木一郎市川染五郎美輪明宏といった人気俳優が自作曲でヒットを出すというケースも出てきた[8]

歌謡曲には古くからレコード会社プロダクションの主導により職業作家の作った楽曲を歌手が歌うという厳格な分業システムがあったが[10][20]、彼ら歌手にも音楽的才能があるため作曲能力があり、知名度も相まって自作曲をリリースすることが出来た[21]。加山のケースでいえば自身の主演作『ハワイの若大将』の劇中歌に自作曲が採用されてヒットした後、自作曲を多く歌うようになった[22]。しかし加山は作曲のみ自分で行い、作詞は職業作詞家によるものだったため、そのほとんどがラブソングであり歌謡曲と変わりがない[23]。後に現れた「フォークシンガー」や「シンガーソングライター」が、反体制歌や非歌謡曲を志向した点や、"自分たちの言葉で歌にしていく"と、自己表現した歌詞にも特徴があった点で異なる[24][25][26][27][28]。また音楽的ベースも加山はグループ・サウンズであり、ロック寄りで、これも後の「シンガーソングライター」がボブ・ディランPP&Mなど、アメリカのフォークソングをベースにしたものとは異なる[25][29]。加山自身「俺は俳優。歌は趣味的なもの」と話しており[30]、この点からも、その後の「シンガーソングライター」と系統的に繋がってはいないといえる[31]荒木一郎は「当時では、俺だけが純粋に作詞・作曲で、しかも商業的でなかった。そのまんまだったんだ」と述べている[32]岡林信康吉田拓郎小室等井上陽水らは、加山らを先達とは考えてはいない[33][34][35]小室等は「平尾さんとかそういうとか人たちは歌謡曲に積極的に寄りそう形で出てきたシンガーソングライターだったけど、ぼくらはその糸を切ってある。彼らとは違う」「あの当時のフォークソングをはじめた連中というのは、アンチ商業主義だった」[35]、吉田拓郎は「音楽の世界での僕の諸先輩方は、歌謡曲やグループ・サウンズですから。ソングライティングはしていない。日本の音楽界に関しては、僕の上の世代はいない。僕がいつも最初なんです」[34]等と述べている。1960年代後半から現れたフォーク系シンガーソングライターの多くは、既存の歌謡曲とは、ほぼ無縁の活動から誕生した人たちである[36]

1970年代〜

[編集]

「シンガーソングライター」という言葉が日本で認知されたのは1972年で、吉田拓郎のブレイク以降である[36][37][38][39]。『ニューミュージック・マガジン』1972年5月号の記事には「いま、シンガー=ソングライターなんて騒がれてる連中のやっていることは~」という内田裕也の発言が見られ[40]、同じく1972年7月に刊行された『爆発するロック』という本の中の富澤一誠かまやつひろしの対談では、富澤が「今、話題になっているシンガー・ソングライターなんかどう思いますか」と、かまやつに質問する場面がある[41]。1973年の「guts」1月号には、「1972年度、日本のフォーク界の大ニュース」として、「吉田拓郎、あがた森魚などのシングル盤ヒットにより、"シンガー・ソング・ライター"が日本の音楽界にクローズ・アップされた」「"シンガー・ソング・ライター"の大衆化~」といった記事が見られる[42][43]。吉田拓郎がヒットを連発するに及んで、各レコード会社もプロダクションも競ってシンガーソングライターの売り出しにかかった[39][44][45]

1972年7月に荒井由実をデビューさせた村井邦彦は、「最初は荒井を作家として契約したが、シンガーソングライターの時代にだんだん変わっていくときだったので、荒井をシンガーソングライターとしてデビューさせた」と述べている[46]。当時はまだ自作曲を歌い、さらにその曲をヒットさせることが珍しかったため、マスメディアも「シンガーソングライター」を大きく取り上げたと考えられる[47]。「シンガーソングライター」という言葉が使われ始めたのは1972年以降で、それまでは特に定着した呼び名はなく、あえていえば「自作自演」という言い方をされた[31][48][45][49]

「シンガー・ソングライター」という言葉が日本に入ってきた1970年代初めには、高石友也や岡林信康といった「自作自演」のフォークシンガーが若者の支持を得ていた。ただし彼らはマイナーレーベル所属であったため、レコード自体はあまり売れておらず[50]、歌謡界のシステムを揺らがすまでには至らなかった[24][51]。しかし、その後の吉田拓郎や小椋佳かぐや姫、井上陽水ら、テレビへの出演を拒否しアルバム作品の制作とコンサート活動に重きを置く「自作自演」のフォークシンガーたちは、メガヒットを出し、また演歌や歌謡曲歌手に楽曲提供をおこなう等、長く話題を提供して世間の注目を集め、既存の芸能界に影響を及ぼすまでになった[10][24][28][52][53][54]。小室等、吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげるの 4人が自分たちのレコード会社「フォーライフ・レコード」を設立した1975年には、シンガー・ソングライターによるフォークがレコード・シェアの四割近くを占有した[55]。こうして、借り物ではない、自分の言葉で、個性で、歌を唄う、表現する、シンガーソングライターが、若者たちの支持を勝ち得て定着していくことになった[2][10][27][56][57]。彼らの多くが自ら作詞作曲した楽曲を、ギターを弾きながら歌う「ソロのフォークシンガー」であったため「シンガーソングライター=フォーク系のソロシンガー」のイメージが付いた[45][53][58][59]

一方で、当時は職業作詞家・作曲家が作るようなレベルの楽曲を歌手が容易に作れるとは思われていなかった。前述の内田裕也発言は[40](シンガー=ソングライターは)「ロカビリーがだんだん歌謡曲になったのと同じ。長く続かない」といった主旨だったし、富澤一誠かまやつひろしの対談では、富澤が「ぼくから見ると、作詞・作曲・歌と三つのことをすべてうまくやるってことは、困難じゃないかと思えるんですがねえ。だから、三つのことをそれぞれプロフェッショナルがやった方が、いいものが生まれると思うんですけど」と話している[41]。当事者の一人だった南こうせつ自身も「ブームが続くとは思ってなかった」と話しており[60]、シンガーソングライターによるフォークブームは短命に終わるのではないかという見方もあった。しかし、1970年代に才能あるシンガーソングライターが多く続いたために、一過性のものではなく、日本の音楽界のメインストリームになっていった[10][53][61][62][63]

特に1973年頃から、五輪真弓金延幸子りりぃ荒井由実吉田美奈子小坂明子小坂恭子中島みゆきらが台頭した時[2][64][65][66]、彼女たちの中にギターを持たずにピアノを弾いて歌うというような、フォーク臭の全くない者がいたため彼女らを「女性フォークシンガー」とも呼び辛く、適当な言い方がなく「女性シンガーソングライター」という言い方が非常に多く使われた[45][63]。これも「シンガーソングライター」という言葉の認知度アップに影響があったと考えられる[67]。勿論、多くの「シンガーソングライター」を輩出した「ヤマハポピュラーソングコンテスト」の功績も非常に大きい[68][69]。なお、「女性シンガーソングライター」の原型は、1967年に小薗江圭子の詞に自分で曲をつけた「この広い野原いっぱい」でデビューした森山良子という見方もあるが、森山は職業作詞家・作曲家の作品や洋楽カバー曲を歌うことが多く1970年代半ばまで"歌謡曲歌手"というイメージがついていた[2][70]

『guts』1972年8月号で、岩井宏新田和長本城和治三浦光紀、三橋一夫の参加で「座談会・72前期日本フォークの決算書 市民権を得たばかりの新しい音楽はわれわれの手で守ろう」という対談が6頁に亘って掲載され[71]、この中で「女性フォーク・シンガーが少ないワケ」という話の流れで、三橋一夫が「レコードになる女性の歌手が少ないですね。りりぃ、五輪真弓、金延幸子、小野和子…そんなところでしょう」と発言すると三浦光紀が「女性の場合は個性がないですね。キャロル・キングが流行すればみんなキャロルみたいになるし、森山良子が全盛期には揃って森山調になる」などと発言し、対談で名前が挙げられたのは以上の人たちだけのため、今日に繋がる「女性シンガーソングライター」の草分けはこの人たちと考えられる[71]。この記事に続く「72年版日本のフォーク&ロック・アルバムガイド…秀作30枚ピックアップ」という記事でリリィのアルバム『たまねぎ』のレコード評に「日本では初めてといえる本格的女性シンガー=ソング・ライターともいえるリリィ」と書かれている[72]。他に1972年にアルバムデビューした金延幸子、五輪真弓、りりぃ、中山ラビあたりとする見方もある[66]。「女性シンガーソングライター」による最初の大ヒット曲はヤマハポプコン出身の小坂明子が1973年12月に出した「あなた」である[2][69]。シンガー・ソングライターの台頭は、職業作詞家・作曲家の安定を揺るがす存在になっていく[38][73]。また歌謡曲歌手にも大きな影響を与えた[74]。1970年代も半ばになると、フォークという言葉ではフォローできない音楽がたくさん出てきて、フォークはニューミュージックという呼び方に吸収されていった[62][75]。歌謡曲のフィールドでも渡辺真知子のように自作曲で日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞するような者も出てきた。1980年以降には、シンガーソングライターの影響を受けた職業作詞家・作曲家が出てくるようになった[58][76]。現在の音楽界は、シンガーソングライターたちが成し遂げた変革の上に成り立っている[52][56]

平尾昌晃は「昭和40年代後半のアイドルブームに沸く日本の歌謡界に、沖合から大きな波が押し寄せていた。それが『フォーク・ブーム』である。吉田拓郎、井上陽水らのヒットを契機に、南こうせつとかぐや姫、グレープなどの、いわゆる叙情的なフォークソングもヒットし『昭和歌謡』の幅はグンと広がった。この頃から、フォークソングは、ニューミュージックと言われる時代に入ったのだと思う。僕は作曲家であり、歌手でもあるけど、正直言って、彼らの才能には脱帽した。何しろ、自ら作詞作曲し、楽器を演奏しながら歌う彼らがひとりではなく、次々と登場してきたのだから。しかも、彼らが自分で歌う『結婚しようよ』にしろ、『傘がない』にしろ、『神田川』『精霊流し』『なごり雪』にしろ、それがまた名曲であったからである」などと論じている[77]

小西良太郎は『スタア』1975年1月号の「歌は世につれ世は歌につれ 『不況の中の'74年歌謡曲やぶにらみ考」という記事で[78]、「1974年10月最終週のLPレコードの売り上げは「1位『二色の独楽』(井上陽水)、2位『かぐや姫LIVE』(かぐや姫)、3位『氷の世界』(井上陽水)、4位『NSP III』(NSP)、5位『陽水ライヴ』(井上陽水)、6位『ゴールデン・プライズ第2集』(カーペンターズ)、7位『追憶』(沢田研二)、8位『オン・ステージ』(八代亜紀)、9位『ぼくがつくった愛のうた』(チューリップ)、10位『ライブ3』(五木ひろし)と、フォーク勢が上位を独占。シングル盤でも話題は豊富で、ガロ、かぐや姫、あのねのねなぎらけんいち海援隊加藤登紀子長谷川きよし、りりぃ、山本コータローとウィークエンド、NSP、ダ・カーポ三輪車チェリッシュ、よしだたくろうも健在で大にぎわい。このほとんどが、自作自演である。彼や彼女らは年齢的にも、感性の点でも、聞き手の若者たちと同じか、近いところにいる。それが自分に素直に手作りの歌を作っていくから、ファンの気分にフィットする率が高い。そんな要素がファン不在に近い歌作りに堕した歌謡曲プロデューサーの失点をうまいぐあいに挽回してしまったといえる。ダークホースが大当たりしたのが1974年一年のヒット曲の三分の一、若年寄り扱いになりかかった中堅どころのヒットが三分の一、残り三分の一がフォーク系という大ざっぱな計算が成り立つのだから、フォークは今や流行り歌世界の一大勢力にのし上がったとことになる。そこから、歌謡化したフォークへの異議が生まれる。このジャンルが芽を吹いたのは70年安保を控えての岡林信康や高石ともやあたりからだが、昨今のフォークの、精神不在を嘆く声が出るのもムリのない話ではある。しかしここで大事なのは、ファンをつかみはじめた"支流"を排斥することではなく、全員がそれぞれの立場から、フォークの意味を再確認し、よって来るところを踏まえ直すことだろう」などと論じている[78]。5頁に及ぶこの記事内で、小西は一度も「ニューミュージック」という言葉を使用していないため、記事を書いたと見られる1974年暮れには音楽関係者の間でも、まだ「ニューミュージック」という言葉は普及していないものと考えられる。

当初は「歌謡曲のアンチテーゼ」としての意味が含まれていた「シンガーソングライター」という言葉だったが、ニューミュージックが、フォーク以上に歌謡曲との区別がつき辛いこともあって、1970年代後半には、歌謡曲側の自作自演歌手も含め、自ら書いた歌を自ら歌う人はジャンルにかかわらず全員「シンガーソングライター」と呼ぶようになった[79]

所ジョージは1977年のデビュー時から"シンガーソング・コメディアン"と名乗り[80]、1981年の週刊誌は、俳優・寺尾聰の大ヒットを"大人の味を持ったシンガーソングライター"[81]、『男道』という自作曲のレコードを出したプロ野球選手松岡弘を"プロ野球界初のシンガーソングライター誕生!"と紹介した[82]。土田明人という本職が小学校の先生がレコードを出した時は"シンガーソングティーチャー登場"と書いている[82]。またそれまでの「自作自演」という言い方よりも、ちょうど「シンガーソングライター」という「自作自演」そのままの意味を持つ語感のいい言葉が定着したため、単純に「歌を作って歌う人」は全員「シンガー・ソングライター」、遡って、あの人も昔、歌を作って歌っていたから「シンガー・ソングライター」と言い出したものと考えられる。こうした理由もあって現在、前述した人物の多くが、文献やネットで「シンガーソングライター第1号」「シンガーソングライターの草分け」等と紹介されている[19][83]

先に挙げたように「シンガーソングライター」という言葉が使われ始めたのは1971年、1972年以降で、これ以前に活躍した前述の加山雄三や荒木一郎、1960年代後半に現れた高石友也や岡林信康といった人たちは、リアルタイムでは「シンガーソングライター」と呼ばれず、のちにそう呼ばれるようになった[7][8]。高石は「フォークシンガーです。と自己紹介すると『シンガーソングライターですよね』と聞き返される。そんな大層なもんじゃないんですけど」と話している[84]。高石にとっては「シンガーソングライター」という呼ばれ方には馴染みもなく違和感があるのか、あるいは、商業的に大きな成功を手にした1970年代以降の(一部の)「シンガーソングライター」たちは、自分たち「フォークシンガー」とは違うという意識があったのかもしれない。なぎら健壱は「(1970年代後半に出現したシンガーソングライター)と自分のやっていたフォークとの結びつきは感じられない。拓郎さんやかぐや姫には繋がりがあったかもしれないけど、それがすごくメジャーになって、商業資本と結びついて、すごく人気が出て、大きな音楽になってゆくにつれ、フォークだった部分は無くなっていったと思います。生ギターが入っていたり、曲調や歌の内容がそうだったとしても、精神そのものがフォークじゃなくなっていったと思う」などと述べている[85]

現在、「シンガーソングライター」を「歌手を兼ねる作曲家」と答える人はいないと思われるが、かつては違った。毎日新聞社が1978年に出した『別冊一億人の昭和史 昭和の流行歌手』という本に「ちかごろは、シンガー・ソング・ライターなどといって、自作自演する者が増えたが、戦前は大変珍しかった。とくに作曲家が、歌手を兼ねて、どちらもヒットする、などということは、まったくマレなことだった」という記述があり、ここで林伊佐緒を紹介している[86]。林は作詞はしない作曲家兼歌手であり「シンガー・ソング・ライター」と呼ばれる以前は「自作自演歌手」は「作詞+作曲もする歌手」はもちろん「作曲だけする歌手」の両方を指していたものと考えられる。そして現在でも「作詞と作曲のうち、作曲のみしかしていない場合でも、一般的にはシンガーソングライターというのに対し、作詞のみしかしていない場合には、シンガーソングライターとは言わない」ことが多い[23]

ヤマハポピュラーソングコンテスト」でプロデビューしたアーティストが所属するヤマハ音楽振興会(現ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス)は[87]ゴダイゴらが所属するABCプロモーションと共に、1979年の所属アーティスト・歌手のレコード・テープの総売上げが1969年創立以来"タレント帝国"の名をほしいままにしてきた渡辺プロダクション(ナベプロ)を抜いて1位・2位となった[87]。これは芸能界支配構造の再編成を象徴する出来事だった[87]。膨大な利権構造を独占する大手芸能プロを中心とする芸能共同体に反旗を翻した最も有名な事件が、先述した1975年のシンガーソングライター4人によるフォーライフ・レコードの設立であるが[87]、これをきっかけとして芸能界の利権の仕組みを知った多くのシンガーソングライターが以降、個人事務所などを設立した[87]世良公則&ツイスト(のちツイスト)は最初はヤマハに所属していたが、1979年9月にヤマハから独立し、個人事務所・MRT(ミュージシャン・レヴォリューション・トレイン)を立ち上げた[87]。出演契約の業務はヤマハに委嘱したものの原盤権著作権を自分たちで握り、人気自体は下降していったが、利益は莫大になったといわれる[87]。シンガーソングライターは上手くやれば、100%利益を独占することも可能といわれる[87]。当時公表されていた長者番付の歌手部門で、ニューミュージック系のシンガーソングライターが上位を独占したのはこのような事情があった[87]

1980年代〜

[編集]

作詞と作曲のうち、作曲のみしかしていない場合でも、一般的にはシンガーソングライターというのに対し、作詞のみしかしていない場合には、シンガーソングライターとは言わないことが多い理由として、その答えのような阿久悠の言及が1985年の和田誠との共著の中にある。ここで阿久は「GSが流行ってきてギターが普及して、素人が曲をつくるようになりましたね。で、それからずーっとフォークの段階がきて、5年ぐらい前までは、やっぱり曲のほうが専門的で詞は誰でも書けるという意識があったわけです。字が書けますから。何となく詞らしきものはできる。その代わり、曲は専門的な知識とか才能が必要だって思い込みがあったんですけどね。近頃すっかり逆になってきちゃってね、曲の方が簡単になってきてるんですね。で、詞を書ける人がいないんですよ」と発言している[88]

シンガーソングライターが主流となった1980年代以降[89]はあまり見られなくなったが、かつてはラジオや歌謡誌などで一般(素人)から募集した詞に対して作曲家が曲を付けてプロの歌手が歌うということがよくあった。逆に素人から曲を募集して作詞家が詞を付けるということはなかった。こうした影響もあって、かつては作詞家は作曲家より下、「作詞だけする歌手」をシンガーソングライターとは呼べない、という感覚があったものと考えられる[90]

しかし2000年代頃からはむしろ作詞家が注目される機会が増えている[91][92]。と言うよりも、作曲家、歌い手の功績を無視して、作詞家が時代を創ったかのような論調が増えている。また古くから存在する「作曲だけする歌手」に比べ「作詞だけする歌手」の出現は比較的最近のことで、まだ評価が定まっていないとも考えられる。この「作詞だけする歌手」は、シングルレベルでは森高千里あたりが最初と思われ、森高の歌詞を当時のマスメディアがユニーク等と好意的に紹介したことも「作詞だけする女性歌手」のその後の急増に繋がったかも知れない。金澤寿和は「重要なのは、自己表現の手段として有効に機能しているか否か。シンガーなのだから、曲を書けるのが基本。森高千里のように、作詞はするが作曲は他人任せというケースは、広義ではシンガーソングライターに当てはまるものの、敢えてそう呼びたくない。つまり、音や旋律で自分を表現する欲求を持つのが、シンガーソングライターの第一歩。更に自分自身の言葉を持っていれば、それが理想的なシンガーソングライターということになる」などと論じている[2]。2013年『Disc Collection 日本の女性シンガー・ソングライター』という書は、「自身で作曲(作詞だけではなく)をしているシンガー」のみを掲載しており、「作詞だけするシンガー」をシンガー・ソングライターと認めていない[3]

1980年前後に"軟弱""ネクラ"などと世間から叩かれてイメージを悪くした「ニューミュージック」という言葉に比べると[93]、「シンガーソングライター」という言葉は好イメージが持続した[94][95]。1980年に突如、漫才ブームが勃興したが[96]、人気を集めた当時の(若手と表現された)B&Bツービート紳助・竜介たちは、それまでの漫才師が台本作家が書いたネタを演じていたのに比べて[94][97][98]、自分たちでネタを書いた[94][97][98]。これを当時のマスメディアが「彼らはそれぞれが自分たちで考えたネタで勝負。いわばシンガーソング・ライター。彼らの本音をぶつけたネタがヤングの共鳴を受けている」と、「シンガーソング・ライター」という言葉を自作自演の良い例えとして使用している[94]

また映画界でも1980年前後に日本映画界石井聰亙大森一樹ら、新しい才能が続々輩出された状況について、長谷川和彦高林陽一は『キネマ旬報』1981年5月下旬号で、長谷川「音楽でいえば、フォークソングフォークとかニューミュージックと言われて、シンガーソング・ライターが出てきた状況と似ているんじゃないかね」、高林「僕はそっくりだと思う」などと述べている[95]

1970年代に「シンガーソングライター」という言葉は定着したものの、1980年代以降に言われ始めた「J-POP」というカテゴリーでは、自作自演であることが強調されなくなった時期もあった。ビーイング小室哲哉つんく♂等のプロデューサー主導による楽曲や、バンドブーム以降のロックバンドヒップホップグループによるグループ単位での音楽活動が目立ったため、ソロシンガーのイメージがある「シンガーソングライター」とはあまり呼ばれなかったのかも知れない[2]。しかし現在のミュージシャンは大抵曲を自作しており、むしろ自分で曲を作らない人が少数派になっている[53][64]宇崎竜童は「ここ20年くらいは、みんながシンガーソングライターになって、演歌以外は職業作家へのオファーが少なくなりましたね。『歌謡曲』というものは一回滅びたのかなと思います」と述べている[99]。「歌謡曲流行歌」「昭和の流行歌=歌謡曲」「歌謡曲は昭和で終焉した」などと定義付けるなかにし礼[100]、「アルファレコード村井邦彦川添象郎が松任谷由実をデビューさせたように、1970年代に少なからぬシンガーソングライターを世に送り出したのは、われわれの世代のクリエイターたちである。ところが送り出される当人たちは『自分たちのつくる自分たちの歌を歌いたい』と主張したという。その時代のムードにわれわれの生み出すヒット曲はそぐわないと、彼らは感じたのだろう(中略)そのうちのあるものは若者たちに熱狂的な支持を受けた。しかし、ではそこにどれだけの名曲があるかとなると、話は怪しくなる。フォークやニューミュージックは、一つのムーブメントをつくりはしたものの、そこから生まれる名曲はそれほど多くない(中略)たいていは一曲かせいぜい二曲であとが続かないのがシンガーソングライターの特徴と言えるかもしれない。一人ひとりはそれほど多くの名曲、ヒット曲を生み出したわけではなくとも、彼らの歌や社会に対する姿勢が、ひとかたまりのムーブメントとして意識されていたことは間違いない(中略)彼らが本当の意味において"自力"で自らの歌を世に送り出したかというと、そんなことはない。そもそもレコードをつくり、それを売るという作業は企業体がやる仕事であって、個人でやれることではない。要するに彼らは、全て自分の力でやっているというポーズをとった、新しいタイプのスターだったのである。彼らのヒット曲も、歌そのもののパワーというより"既成のものに媚びないシンガーソングライターとしての生き方"という一種のブランドによるところが大きかったのではないか、彼らの音楽活動を商売として支えたのは、芸能事務所テレビ局が作った音楽出版社レコード会社であった事実を忘れてはならない」などと述べている[100]

2000年代〜

[編集]

「シンガーソングライター」という表現が使われ始めて長年が経過したが、この表現は再び誇りを持って非常に多く使われるようになった。2000年代頃よりテレビ朝日ミュージックステーション』は、自作自演歌手をシンガーソングライターと紹介することが多く、オリコンがCDの売り上げ1位記録を「女性シンガー・ソングライターとして○○以来の快挙」等と報道したり[101]専門学校や音楽スクールに「シンガーソングライター科」等が置かれたりするのは[102]、「シンガーソングライター」という言葉自体が定着しているといえる[103]。また、モーニング娘。市井紗耶香が「シンガーソングライターになりたい」と、モーニング娘。を卒業したり[104]中村あゆみのシンガーソングライターの名曲カバーアルバムの発売[105]等は、シンガーソングライターの先人をリスペクトする事例と言える。日本経済新聞は、ポール・マッカートニーを"英シンガー・ソングライター"と紹介している[106]。また、現在の若いシンガーは、肩書を「シンガーソングライター○○」と称したり、「○歳の時に、シンガーソングライターになろうと決めた」「生涯シンガー・ソングライター」等と話す者も多く[107]、ベテランミュージシャンの中にも肩書を「シンガーソングライター○○」と称する人が増えてきた[108]2022年、松任谷由実が文化功労者に選出されたが、文部科学省は松任谷の「職名等」に「シンガーソングライター」と書いた[109]。国からシンガーソングライターが職業として認められたと見られる。本項のシンガーソングライターの説明は"ソロ形態"と書かれているが、"職業"と置き換えてもいいのかもしれない。ホコ天上がりの元バンドマンでプロデューサーの寺岡呼人は、こうした傾向を「シンガーソングライター至上主義」と表現し「1970年代の分業制の方が結果的に後生に残るようなものを作ってる気がする」と疑問を呈している[110]。寺岡は「シンガーソングライターという言葉の持つ意味合いがどんどん変わってきているなと感じる。もともとは『歌謡曲をぶっつぶそう』みたいな形でシンガーソングライターが出てきて、専業の作家やアレンジャーを追い払っていったと思うんです。でも今いろんな人たちと仕事していると、自分で歌う歌詞が直前までできあがっていないみたいなのって本末転倒だな(プロデューサーと最初から共同作業をしようとしている)と思う」などと話している[13]

ライブハウスストリートなどで活躍しているアーティストの中にも、インディーズ事務所に属するしないを問わず、多数のシンガー・ソングライターと自称する若者達もいる。自らの演奏と歌声でメッセージをダイレクトに観客に伝えるというこのムーブメントに関わる個々のアーティストの動機・年齢層は様々で、メジャーデビューを夢見る者、趣味として続けていく者など多岐にわたる。また、この背景にはかつて音源の制作やその音楽配信が膨大な資本組織を必要としたのに対し、インターネットによる様々な技術やサービスによって音楽配信が個人もしくは小規模のレーベル等のレベルで可能になったことが大きい。これらのことが「次世代のシンガーソングライター」を産み出す要因となりつつある。

なお演歌業界では、21世紀に入ってからも作曲家・大御所歌手への弟子入りなどを経てデビューという事実上の徒弟制が残っており、吉幾三のように自分で作詞作曲できる一部の例外を除き、多くの歌手がベテランになっても師匠や外部から曲を貰えるのを待つしかない状態である。

各国のシンガーソングライター

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ たとえば、後述の林伊佐緒と同世代の藤山一郎は、作曲の仕事も多数行っており「ラジオ体操のうた」をはじめ自ら歌唱した曲も存在するが、藤山のヒット曲の数々は他人の作曲であり藤山が「シンガーソングライター」といわれることはほとんどなかった。

出典

[編集]
  1. ^ シンガーソングライター(singer-songwriter)の意味・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書”. goo辞書. 2023年2月8日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『W100 シンガー・ソングライター 今という時代を探る』、シンコーミュージック・エンタテイメント、2011年、p4-9、214-217
  3. ^ a b 『Disc Collection 日本の女性シンガー・ソングライター』、シンコーーミュージック・エンタテイメント、2013年、p2
  4. ^ Carole King(キャロル・キング)|発売50周年記念!1971年発売『つづれおり』(原題:Tapestry)が、モービル・フィデリティ社の究極のアナログ盤規格「ULTRADISC ONE-STEP」×「MoFi SuperVinyl」で復刻!
  5. ^ 「レコード・コレクターズ 2010年3月号、ミュージックマガジン、p41-97
  6. ^ シンガー・ソングライター(SSW)の源流 ジェイムス・テイラーが集大成ライブ・アルバム『ワン・マン・バンド』発表
  7. ^ a b 『新譜ジャーナル・ベストセレクション'70s』、自由国民社、2003年、p88
  8. ^ a b c 200CDフォーク編集委員会編『200CD フォーク』、立風書房、2003年、p2、12-33、118-215
  9. ^ a b 俺たちのビートルズを熱く語ろう(1) |アサ芸プラス
  10. ^ a b c d e f 清川仁 (2015年8月6日). “戦後70年 ここから変わった(4)…シンガー・ソングライター”. 読売新聞 (YOMIURI ONLINE). オリジナルの2015年10月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151022141137/http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20150806-OYT8T50105.html 2015年10月23日閲覧。 
  11. ^ ボブ・ディラン追いかけ50年…吉田拓郎と井上陽水の現在
  12. ^ a b c レコード・コレクターズ5月号増刊<レココレ・アーカイブス5>2010年5月1日発行、ミュージックマガジン、p25 - 29
  13. ^ a b 寺岡呼人「Baton」発売記念特集 寺岡呼人×桜井和寿(Mr.Children)対談
  14. ^ a b c 『ロック&ポップス名曲徹底ガイド(3) 1970-74年編』音楽出版社、2006年、19頁。 
  15. ^ a b 『スタンダード・ヴォーカル名曲徹底ガイド 上巻』音楽出版社、2006年、101頁。 
  16. ^ 『スタンダード・ヴォーカル名曲徹底ガイド 上巻』音楽出版社、2006年、52頁。 
  17. ^ 『歌謡の百年』 第 6巻 戦後の歌、監修堀内敬三、レコード制作 日本ビクター実業之日本社、1969年、p35
  18. ^ ビリー諸川『昭和浪漫 ロカビリー』 平凡社、2005年、140頁
  19. ^ a b ビートルズ・日本・イギリス - www.ritsumei.ac.jp
  20. ^ 加山雄三『若大将の履歴書』、日本経済新聞出版社、2010年、p100、101
  21. ^ ニューミュージック・マガジン」1972年5月号、p48、49
  22. ^ スポーツニッポン、2010年7月11日7面
  23. ^ a b 岩谷時子ヒット曲生み続けた「92年の幸せな生涯独身」加山雄三に100曲以上の詞とは驚いた
  24. ^ a b c ロック激動のイヤー、1969年にタイムスリップ! 私の1969 - 第2回 萩原健太
  25. ^ a b 小川博司『メディア時代の音楽と社会』、音楽之友社、1993年、p143
  26. ^ 長田暁二『歌でつづる20世紀』、ヤマハミュージックメディア、2003年、p194、195
  27. ^ a b 田家秀樹/Rolling Stone Japan 編集部 (2020年7月27日). “吉田拓郎と井上陽水、1970年代のライブアルバムを振り返る”. Rolling Stone Japan. ネコ・パブリッシング. 2021年10月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月26日閲覧。
  28. ^ a b 田中隆信 (2021年6月7日). “インタビュー ラジオDJ・赤坂泰彦が語る、吉田拓郎と谷村新司が変えたフォークソングのイメージ”. HOMINIS. スカパーJSAT. 2021年8月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月26日閲覧。
  29. ^ 『歌謡ポップス・クロニクル』小西康陽近田春夫阿久悠鈴木慶一サエキけんぞう他、アスペクト、1998年、27、89、120
  30. ^ 高平哲郎『みんな不良少年だった』、河出書房新社、1985年、p142
  31. ^ a b 『1970音楽人大百科 日本のフォーク/ニューミュージック/ロック』、学習研究社、1994年、p20-21、31、52、53
  32. ^ 映画秘宝』、2012年1月号、洋泉社、p79
  33. ^ 阿川佐和子『阿川佐和子の会えばドキドキ この人に会いたい 7』、文藝春秋、2009年、p53
  34. ^ a b “吉田拓郎インタビュー”. 日経電子版 WEB GOETHE (日本経済新聞). (2012年). オリジナルの2010年8月3日時点におけるアーカイブ。. https://archive.fo/qYfl 2020年12月27日閲覧。 
  35. ^ a b 佐高信対談集 『佐高信の丁々発止』、七つ森書館、2006年、p362-363
  36. ^ a b 【コラム】木田高介の果たした大きな役割|HMV ONLINE
  37. ^ 『フォークソングの時代』 曲目メモ by 森山良子 - ハイレゾ音源配信サイト、谷村さんの投稿 吉田拓郎登場!! - 谷村新司 - Shinji Tanimura Official site。
  38. ^ a b 島崎今日子「ジャスト・ア・Ronin 吉田拓郎」『安井かずみがいた時代』集英社、2013年、282-283頁。 
  39. ^ a b 重見吉徳 (2020年10月16日). “吉田拓郎と重なる 中銀の投資家救済”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). オリジナルの2020年10月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20201016120416/https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65008910U0A011C2000000/ 2021年10月26日閲覧。 
  40. ^ a b ニューミュージック・マガジン」1972年5月号、p58
  41. ^ a b 伊藤仁康『爆発するロック』ブロンズ社、1972年、p82 - 84
  42. ^ guts、表現技術出版、1973年1月、p30
  43. ^ あがた森魚が語る「ベルウッド・レコード」と、伝える技術の話 -インタビュー
  44. ^ Museum of Modern Music70'sバイブレーション! なぎら健壱インタビューp3(archive)なぎら健壱インタビューp4(archive)吉田拓郎が日本のフォークソングに与えた偉大なる影響発売1ヶ月で40万枚を売り上げた吉田拓郎のメジャーデビュー作『元気です。』第105回:「ロックと日本の60年」第6章 クイーンを筆頭に、まばゆきロック・アイドルの時代へ【コラム】木田高介の果たした大きな役割|HMV ONLINE
  45. ^ a b c d 『ニューミュージック白書』、エイプリル・ミュージック、1977年、p43、74、75、113、146
  46. ^ 第88回 村井 邦彦 氏 |Musicman-NET 6. ユーミンとの出会いとスタジオA
  47. ^ インタビュー |ヤマハイベントヒストリー |YAMAHA
  48. ^ 古茂田信男『新版 日本流行歌史 下』、社会思想社、1995年、p127、128
  49. ^ 『歌謡の百年』 第 7巻 現代の歌、監修堀内敬三、レコード制作 日本ビクター実業之日本社、1969年、p22、AM1134kHz 文化放送 JOQR
  50. ^ BS朝日「伝説のメロディ 蘇る!日本のフォーク フォークル、岡林信康、吉田拓郎、かぐや姫・・・」
  51. ^ 陣馬虫太郎『70's STAR・DUST』、ヒット出版社、1996年、p113
  52. ^ a b 新人アーティスト・キンモクセイを紐解く“歌謡ロック”講座 / BARKS 特集
  53. ^ a b c d 『ロック・クロニクル・ジャパンVol.2 1981-1999』、音楽出版社、1999年、p22 - 24、52-54
  54. ^ 70年代のフォークを語ろう - シニアコム.JP音楽CD検定公式ガイドブック下巻 (CDジャーナルムック) p111NIKKEI Digital Coreなんでも答えます、音楽のギモン! - BEHIND THE MELODY .2013年05月21日.. - J-Wave百恵と淳子、身を削って提供された作品 |アサ芸プラス「チャート自体に大きな宣伝力がある」牧村憲一(音楽プロデューサー)インタビュー(Billboard JAPAN)(※井上陽水のアルバム『氷の世界』が100万枚を売り上げたのは1975年8月)、野地秩嘉『芸能ビジネスを創った男』、新潮社、2006年、p155-160、金子修介『失われた歌謡曲』、小学館、1999年、p86-93
  55. ^ 『軟派昭和史』、スポーツニッポン新聞社文化部、1975年、p297 - 299、牧村憲一『ニッポン・ポップス・クロニクル 1969-1989』スペースシャワーブックス、2013年、p70 - 71
  56. ^ a b 日本のフォークソングとその時代 |伊藤 真弓 |明治大学リバティアカデミー
  57. ^ 「シンガーソングライター夢の名曲大全集」 (NHK BS-2、2001年12月21日放送)第68回 吉田 建 氏 7 |Musicman-NET
  58. ^ a b 「作家で聴く音楽」第六回 松井五郎
  59. ^ まよなかしんや|やいま×インタビュー - 石垣島発八重山ポータル 好きな男性シンガーソングライターランキング - 音楽ランキング - goo 好きな女性シンガーソングライターランキング - 音楽ランキング - goo シンガー・ソングライター
  60. ^ 週刊ポスト、2008年8月1日号、p57
  61. ^ ポプコン・エイジ・クロニクル1975 - 1977Musicman'sリレー
  62. ^ a b 田家秀樹『読むJ-POP 1945-1999私的全史』、徳間書店、1999年、p154-193
  63. ^ a b 富澤一誠(監修)『ニューミュージックの本/日本のフォーク&ロック』、共同通信社、1978年、p40、41、45-50、146、『エイティーズ』、河出書房新社、1990年、p136-141
  64. ^ a b 「作家で聴く音楽」第二十回 大貫妙子 - JASRAC
  65. ^ 北中正和『にほんのうた―戦後歌謡曲史』、新潮社、1995年、186-189、『別冊太陽 日本のロック 50's~90's』、平凡社、1993年、p120、ライナーノーツ|EMI ROCKS The First - EMIミュージック・ジャパン“生き様”を“音”に変換 リアル・ロックヴォーカリスト 亜矢 / BARKS 特集
  66. ^ a b 寺本幸司『音楽プロデューサーとは何か 浅川マキ、桑名正博、りりィ、南正人に弔鐘は鳴る毎日新聞出版、2021年、141頁。ISBN 9784620326825 
  67. ^ 鈴木勝生『風に吹かれた神々』、シンコー・ミュージック、1987年、p146-153
  68. ^ ポピュラーソングコンテスト |イベントヒストリー |財団法人ヤマハ
    LIVE!!POPCON HISTORY Ⅵ つま恋本選会
  69. ^ a b 【わが昭和歌謡はドーナツ盤】16歳で作った小坂明子の「あなた」は、発売48周年で全世界へ配信。半世紀を経ても親しまれるスタンダードナンバー
  70. ^ 富澤一誠『青春のバイブル』、シンコー・ミュージック、p160
    和田誠『和田誠インタビュー その三』、話の特集、1989年、p122-142
  71. ^ a b 岩井宏新田和長本城和治三浦光紀、三橋一夫「座談会・72前期日本フォークの決算書 市民権を得たばかりの新しい音楽はわれわれの手で守ろう」『guts』1972年8月号、集英社、22–23頁。 
  72. ^ 「72年版日本のフォーク&ロック・アルバムガイド 72年前半期はまさにフォーク快進撃の感があった、そして数多くのアルバムが制作され若者に日本の新しい音楽が誕生したことを知らせた その中から秀作30枚ピックアップ…」『guts』1972年8月号、集英社、25頁。 
  73. ^ なかにし礼 時には娼婦のように 世間の常識にノン - インタビュー 音楽のギモン! こんにちは! 亀田誠治です。「BEHIND THE MELODY ~FM KAMEDA」2013年05月21日
  74. ^ 由紀さおり 紫綬褒章に「長く歌ってきたご褒美」 - スポニチ Sponichi
  75. ^ 週刊朝日、1981年1月23日号、p39、jinz bar - 前田 仁の「歌たちよ、どうもありがとう」第1回
  76. ^ 「作家で聴く音楽」 及川眠子 - JASRAC
  77. ^ 平尾昌晃第五章 昭和50-60年代後 なごり雪(昭和50) 伊勢正三作詞・作曲 松任谷正隆編曲 イルカ歌 (クラウン)」『昭和歌謡1945-1989 歌謡曲黄金期のラブソングと日本人』廣済堂出版廣済堂新書〉、2013年、194–196頁。ISBN 9784331517710 
  78. ^ a b 小西良太郎「歌は世につれ世は歌につれ 歌謡特集(2) 『不況の中の'74年歌謡曲やぶにらみ考』」『スタア』1975年1月号、平凡出版、227–231頁。 
  79. ^ guts、表現技術出版、1973年1月、p25
  80. ^ 所ジョージ |web R25
  81. ^ サンデー毎日、1981年6月14日号、p160
  82. ^ a b 週刊サンケイ、1981年1月22日号、p162
  83. ^ 大橋節夫/ベスト・オブ・大橋節夫 倖せはここに~オリジナル・ヒット集
    Essay ~レコードと私~
    荒木一郎(Araki Ichiro)
    美輪明宏 音楽会〈愛〉 - コンサート |Yamaguchi cross STYLE 遊ちょるnet
    LIVING LEGEND 伝説人 Vol.3 長谷川きよし|WEBマガジン e-days
    小室等 INTERVIEWCPRA 実演家著作隣接権センター
    オリコン芸能人事典-ORICON STYLE よしだたくろう
  84. ^ 『関口宏の昭和青春グラフィティ』、BS-TBS、2011年8月30日放送 昭和のフォークソング「フォークソングは僕らの魂の叫びだった」
  85. ^ 「フォーク名盤100選」『FOLK LIFE倶楽部 vol.1―大人のための“フォーク”マガジン』オークラ出版〈OAK MOOK 183〉、75頁。ISBN 978-4-7755-1086-5 
  86. ^ 『別冊一億人の昭和史 昭和の流行歌手』 毎日新聞社、1978年、p86
  87. ^ a b c d e f g h i 藤原行二「岐路に立つ大手芸能プロダクションの内憂外患」『噂の眞相』1980年8月号、噂の眞相、38–44頁。 
  88. ^ 阿久悠和田誠『A面B面』文藝春秋、1985年 → 筑摩書房、1999年、p260
  89. ^ 『A面B面』、p281
  90. ^ さいたさいたちゅーりっぷの花 - 日本チューリップ協会公式サイト
  91. ^ 川内康範氏、独占手記「森は歌の心がわからない」 - ZAKZAK
  92. ^ 佐野元春のザ・ソングライターズ - Moto's Web Server
  93. ^ さだまさし 歌手生活40年…しんどかった「さだは暗い」批判【さだまさし】”. 女性自身. 光文社 (2014年1月9日). 2014年1月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月30日閲覧。山下裕二「歌謡曲の逆襲 音楽はオモシロクなくてはいけないのだ」『音楽の世界』1983年7、8月号、日本音楽舞踊会議、6–9頁。 タモリ・小田和正「歴史的和解」までの長い道のり片田直久『タモリ伝』コアマガジン、2014年、176-178頁。ISBN 9784864366045 
  94. ^ a b c d 「本音で勝負する新人漫才ブーム」『サンデー毎日』1980年8月17日号、毎日新聞社、147頁。 
  95. ^ a b 高林陽一長谷川和彦石井聰亙、日比野幸子(司会・構成)「【特別座談会】 自主映画の明日を語ろう」『キネマ旬報』1981年5月下旬号、キネマ旬報社、94–100頁。 
  96. ^ 河瀬大作 (2016年5月3日). “1980年「MANZAI」に賭けた男たち 鬱屈した野心の化学反応が、大革命を起こした”. 日経ビジネス. 日経BP. 2019年2月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月30日閲覧。漫才ブーム、モスクワ五輪、そして1億円拾得事件…1980年(昭和55年)特集”. 高嶋ひでたけ・森田耕次のキニナル・サタデー. ニッポン放送 (2022年1月8日). 2022年1月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月30日閲覧。
  97. ^ a b 「《総力テーマワイド特集》 紳助・竜介ほか『ザ・マンザイ』のTVではわからない全内幕」『週刊現代』1981年1月22日号、講談社、178-184頁。 
  98. ^ a b エンタツ・アチャコから知ってます、僕は。糸井重里 人生を変えた、 あの漫才。”. BRUTUS. マガジンハウス (2016年11月1日). 2020年3月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月30日閲覧。
  99. ^ 「作家で聴く音楽」 宇崎竜童
  100. ^ a b なかにし礼歌謡曲から「昭和」を読むNHK出版NHK出版新書 366〉、2011年、8–11,152-160頁。ISBN 978-4-14-088366-2https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000883662011.html 
  101. ^ YUI、女性シンガー・ソングライター2人目の5作連続首位 宇多田以来6年ぶりの快挙
    加藤ミリヤが宇多田ヒカル以来となる快挙達成 ニュース-ORICON STYLE
  102. ^ 音楽学校 東京の音楽学校 英国音楽大学と提携 音楽専門校国立音楽院
    音楽学校:マックミュージックスクール |シンガーソングライター科
    ヤマハ渋谷店3F 音楽教室 シンガーソングライターコース |その他 ...
  103. ^ 鬼束ちひろ容疑者は「自称シンガー・ソングライター」? 朝日新聞が記事修正
  104. ^ 市井紗耶香5年ぶり子連れ復帰“モー烈”反響と不安 - 芸能 - ZAKZAK
  105. ^ 中村あゆみ 日本を代表する男性シンガーソングライターの名曲をカバー
  106. ^ “ポールさん武道館公演 2年ぶり、ファン1万人熱狂”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2017年4月25日). https://www.nikkei.com/article/DGXLZO15749240V20C17A4000000/ 2017年10月3日閲覧。 
  107. ^ 20100221|LIVE|阿部真央オフィシャルサイト
    記念対談(シンガーソングライター 清水翔太さん) |八尾市
    Special -これまでの放送&more- アンジェラ・アキ |こころの遺伝子
    PROFILE - 植村花菜 Official web site
    秋元康のお墨付き! 札幌の女子高生シンガー・ソングライター
    asahi.com(朝日新聞社):ケータイユーザーが注目するのは、19歳の美少女シンガーソングライター
    史上最年少のシンガーソングライター『水谷ゆう』Debut ... - リアルライブ
    スポーツニッポン、2011年6月12日29面
  108. ^ プロフィール |やもり(森山良子と矢野顕子)オフィシャルホームページ
    ラジオデイズ : 対談・講演 |3 大貫妙子の世界(2)
    シンガー・ソングライター 遠藤賢司/いまこの人/デイリースポーツ online
    佐渡山豊ブログ 沖縄シンガーソングライターといえば
    南佳孝INTERVIEWCPRA 実演家著作隣接権センター小坂明子公式サイト【MUCAL】
    嘉門 達夫 TATSUO KAMON
    関口誠人 超個人的日記
    シンガーソングライター馬場俊英さんインタビュー(前編) |MYLOHAS
  109. ^ 令和4年度 文化功労者”. 文部科学省 (2022年11月3日). 2022年11月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月15日閲覧。
  110. ^ =TOP=ofUEMURA KANA(Internet Archive)

関連項目

[編集]