ジム・ラフィーバー

ジム・ラフィーバー
Jim Lefebvre
中国代表監督時代
(2008年5月18日)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州イングルウッド
生年月日 (1942-01-07) 1942年1月7日(82歳)
身長
体重
6' 0" =約182.9 cm
180 lb =約81.6 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 内野手
プロ入り 1962年
初出場 MLB / 1965年4月12日
NPB / 1973年4月14日
最終出場 MLB / 1972年9月19日
NPB / 1976年9月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

ジェームズ・ケネス・ラフィーバー(James Kenneth Lefebvre、1942年1月7日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州イングルウッド出身の元プロ野球選手内野手)・コーチ監督

経歴

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現役時代

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ドジャース時代(1971年)

モーニングサイド高校卒業後の1962年ロサンゼルス・ドジャースにバットボーイとして契約。1年目の同年はレノ・シルバーソックス、2年目の1963年セーラム・ドジャース、3年目の1964年スポケーン・インディアンスでプレー。

1965年4月12日のメッツ戦(シェイ)でメジャーデビューを果たした。新人ながら二塁の定位置を獲得して157試合に出場し、打率.250・12本塁打・69打点を記録。同年のリーグ優勝に貢献した。プレーオフではツインズとのワールドシリーズでは第1戦・第2戦(10月6日7日メトロポリタン)に6番・二塁手で出場してワールドシリーズ優勝に貢献した。オフに新人王を受賞した。

1966年オールスターゲームに控え選手として選出された。試合では初出場を果たし、7番・二塁手で先発メンバーに名を連ねた。最終的に24本塁打を記録するなど、チームのリーグ2連覇に貢献した。プレーオフではオリオールズとのワールドシリーズでは10月5日の第1戦(ドジャー)でデーブ・マクナリーから本塁打を記録するが、4戦全敗で2年連続のワールドシリーズ優勝とはならなかった。

1972年は70試合出場で打率.201に終わり、シーズン終了後にFAとなった。

1973年太平洋クラブライオンズとの熾烈な交渉合戦の末、ロッテオリオンズへ入団。NPBでは監督の金田正一の下で主に一塁を守り、初年度にチームトップで自己最多の29本塁打を記録する。

1974年もチームの主力打者としてのリーグ優勝・日本シリーズ優勝に大きく貢献した。阪急とのプレーオフでは10月9日の第3戦(宮城)で山田久志から適時打を記録したほか、ウイニングボールをキャッチ。中日との日本シリーズでは全6戦に出場し、10月20日の第4戦(後楽園)では途中起用ながら3打数2安打2打点と活躍。

1975年からは一軍コーチ兼任となった。5月30日の太平洋戦(川崎)で東尾修安木祥二からパ・リーグ初の1試合左右両打席本塁打を達成。6月1日の同試合でも浜浦徹から9号本塁打を放ち5試合で4本塁打の大当たりであったが[1]、この日を最後に外国人枠の関係と金田との対立を理由に一度現役を引退[2]。コーチ専任となるが、金田に「現役復帰に色気を出した」と怒られて二軍コーチに降格。左の故障で苦しんでいたドラフト1位ルーキーの菊村徳用のためにアメリカから薬を取り寄せるなどして、面倒を見ていた。

1976年に自身の後継と目されていた新外国人のラファエル・バチスタビル・マクナルティが期待外れに終わったことから、現役復帰。5月5日の南海戦(大阪)で金田に交代を命じられたことに不満を表し[3]口論したため、無期限の自宅謹慎処分と1万ドル(300万円)の罰金を科せられた[4]。その後は同13日夜に吉田勝豊矢頭高雄両コーチとの話し合いで非を認め反省の色を示すと、吉田・矢頭が金田にとりなし、翌14日には処分が解除される[3]。罰金も大幅に減額され、二軍でコンディションを調整して一軍に復帰[3]8月8日の阪急戦ダブルヘッダー第2試合(神宮)では1-2で迎えた8回裏、山口高志から決勝逆転3ラン本塁打を放った。春はキャンプ地・鹿児島天文館にあるマムシのエキス入りラーメン[5]を食べてスタミナをつけ、暑い夏はリンゴジュースでコンディションを整えた[6]。同年2度目の現役引退。

引退後

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引退後はロッテの一軍打撃コーチ兼スカウト(1977年)を務め、レロン・リーを自身の仲介で入団させる功績を残し、リーには日本の広いストライクゾーンについてアドバイス[7]。7月にはスティーブ・マクナルティの不調から再度の現役復帰を考え、二軍戦にコーチ登録のまま出場したが、結果は2試合9打数2安打であった。

1978年に帰国し、古巣ドジャース傘下のルーキーリーグ監督に就任。シーズン終盤に急逝したジム・ギリアムの後任としてドジャースの打撃コーチとなり、1979年まで在籍。

退団後はジャイアンツ1980年 - 1982年)→アスレチックス1987年 - 1988年, 1994年 - 1995年)→マリナーズ1989年 - 1991年)→カブス1992年 - 1993年)→ブルワーズ1998年 - 1999年)→レッズ2002年)→中国代表(2002年 - 2008年)→パドレス2009年)で監督・コーチを歴任。アスレチックスコーチ時代は三塁ベースコーチを務め[8]1985年には3Aの監督としてチームを優勝に導き、マリナーズ監督時代には弱小チームの建て直しを図ることに成功。1991年には球団史上初のシーズン勝ち越しを決めたが、球団フロントとの軋轢により退団。その手腕を認められてカブスの監督に就任すると、ホワイトソックスからサミー・ソーサを獲得。1993年にソーサは球団の打者で初の30-30(33本塁打、36盗塁)を達成。1999年はシーズン途中からブルワーズで監督を務めた。2002年に中国代表監督に就任し、アジアシリーズ2005年 - 2007年)、WBC2006年)、北京オリンピック(2008年)でも指揮を執った。北京五輪では予選リーグで台湾を破る歴史的な1勝を挙げたが、8ヶ国中最下位に終わり、オリンピック後に退任。2008年オフにパドレスの打撃コーチに就任したが、2009年シーズン途中で解雇された[9]

人物

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詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1965 LAD 157 631 544 57 136 21 4 12 201 69 3 5 10 4 71 2 7 92 8 .250 .342 .369 .711
1966 152 610 544 69 149 23 3 24 250 74 1 1 10 5 48 3 6 72 10 .274 .337 .460 .796
1967 136 553 494 51 129 18 5 8 181 50 1 5 7 5 44 3 11 64 10 .261 .332 .366 .699
1968 84 317 286 23 69 12 1 5 98 31 0 0 1 3 26 1 4 55 3 .241 .310 .343 .653
1969 95 330 275 29 65 15 2 4 96 44 2 1 3 3 48 1 10 37 8 .236 .366 .349 .715
1970 109 351 314 33 79 15 1 4 108 44 1 1 4 3 29 1 2 42 7 .252 .316 .344 .660
1971 119 437 388 40 95 14 2 12 149 68 0 2 4 4 39 2 6 55 15 .245 .320 .384 .704
1972 70 188 169 11 34 8 0 5 57 24 0 0 0 2 17 0 6 30 3 .201 .294 .337 .631
1973 ロッテ 111 442 400 50 106 12 2 29 209 63 1 2 8 2 27 0 5 60 5 .265 .319 .523 .842
1974 82 310 279 37 79 12 2 14 137 52 1 4 3 0 25 3 3 32 3 .283 .349 .491 .840
1975 47 168 151 13 39 5 0 9 71 24 1 0 3 1 10 3 3 19 2 .258 .317 .470 .787
1976 90 297 268 22 65 8 0 8 97 37 2 2 1 3 23 2 2 36 7 .243 .307 .362 .669
MLB:8年 922 3417 3014 313 756 126 18 74 1140 404 8 15 39 29 322 13 52 447 64 .251 .331 .378 .709
NPB:4年 330 1217 1098 122 289 37 4 60 514 176 5 8 15 6 85 8 13 147 17 .263 .324 .468 .792

表彰 

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記録

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NPB

背番号

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  • 5 (1965年 - 1972年, 1976年, 1980年 - 1982年, 1987年 - 1993年)
  • 1 (1973年 - 1975年途中)
  • 88 (1975年途中 - 同年終了)
  • 85 (1977年)
  • 45 (1978年 - 1979年)
  • 6 (1994年)
  • 11 (1995年)
  • 29 (1998年 - 1999年)
  • 4 (2002年)

脚注

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  1. ^ 『日本プロ野球70年史』ベースボール・マガジン社2004年12月22日ISBN 4583038089、p391。
  2. ^ 週刊ベースボール別冊 よみがえる1970年代のプロ野球 EXTRA2 パ・リーグ編 ベースボール・マガジン社.2022年.P64
  3. ^ a b c 朝日新聞縮刷版p423 昭和51年5月15日朝刊17面「謹慎処分解かれる ラフィーバー
  4. ^ チームヒストリー | 千葉ロッテマリーンズ
  5. ^ 【8月29日】1976年(昭51) 闘将江藤慎一 事実上引退「コイツか言うこと聞いてくれん」
  6. ^ 週刊ベースボール別冊新緑号「[シリーズ]よみがえる1970年代のプロ野球 PART.3 1976年編」、2022年3月31日、B09VTVWGBR、p56
  7. ^ 551本塁打…“日本三大兄弟”と称されたリー&レオンの野球人生
  8. ^ 三塁ベースコーチが野球を変える、澤宮優河出書房新社、2018年、ISBN 430941656X、p66
  9. ^ 後任は同じく日本のロッテでプレーしたランディ・レディ
  10. ^ 早すぎたフライボール革命!? 最低打率で本塁打王となった広島の“一発屋”ランス/昭和助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

関連項目

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外部リンク

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