フランシスコ会

フランシスコ会
Ordo Fratrum Minorum
フランシスコ会の会章
略称 OFM
設立 1209年
設立者 アッシジのフランチェスコ
種類 カトリック教会の修道会
目的 キリスト教宣教、他
本部 イタリアの旗 イタリア
関連組織 クララ会(女子修道会)
フランシスコ第三会(在俗会)
コンベンツァル聖フランシスコ修道会
カプチン・フランシスコ修道会
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フランシスコ会(フランシスコかい、ラテン語: Ordo Fratrum Minorum英語: Order of Friars Minor)またはフランチェスコ会(フランチェスコかい)は、13世紀イタリアで、アッシジのフランチェスコによってはじめられたカトリック教会修道会の総称であり、広義には第一会(男子修道会)、第二会(女子修道会)、第三会(在俗会)を含む。現在、その活動は全世界にわたっている[1]

狭義には男子修道会、すなわち男子修道士による托鉢修道会である第一会に相当する3つの会のことを指し、特にそのなかの主流派である改革派フランシスコ会のみを指すこともある。この3つの会はいずれも「小さき兄弟会」Ordo Fratrum Minorum (OFM) の名を冠している。また、イングランド国教会系の聖公会でもフランシスコ会が組織されている。

フランシスコ会は、無所有清貧を主張したフランチェスコの精神にもとづき、染色を施さない修道服をまとって活動している。

概要

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アッシジのフランチェスコ
生前にフランチェスコを描いたといわれる肖像

13世紀前葉に活動した聖人アッシジのフランチェスコは、男子修道会である第一会、女子修道会である第二会、在俗信者の会である第三会をそれぞれ創設した。

男子修道者の会である第一会(狭義の「フランシスコ会」)は、1209年頃中部イタリアアッシジで成立し、1210年に教皇インノケンティウス3世によって「第一会則」の認可を経て、その創設承認が口約され、1221年のフランチェスコ自身による「第二会則」の制定ののち、その修正を経て、1223年、教皇ホノリウス3世によって正式に認可された[2][3][4]。「第二会則」を受け入れた人びと(穏健派)と拒んだ人びと(厳格派)は、こののち長く争うこととなり、厳格派は代々のローマ教皇に活動を禁止された。また、厳格派のなかのいくつかの主張は異端としてしりぞけられてきた[4]

フランシスコ会の修道士から生まれた中世の神学者スコラ哲学者に、ボナヴェントゥラ(1221年?-1274年)、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス1266年?-1308年)、オッカムのウィリアム1285年-1347年)らがいる[5]。また、大都市に修道院がつくられることの多かったドミニコ会に対し、フランシスコ会は小都市に設立されることが多かったことが確認されている[6]

観想的な女子修道者の会である第二会クララ会(キアラ会)とも称され、1212年にアッシジで創設された。この修道会の中心となった女性がフランチェスコにとって最初の女性の弟子となったアッシジのキアラであり、修道女たちの活動の中心となったのがアッシジ郊外のサン・ダミアノ修道院英語版であった[2][3]。この修道会は1253年、キアラが没する2日前に教皇インノケンティウス4世の許可を受けた[4]

第三会(在世フランシスコ会)が創設されたのは1221年頃で、世俗にありながら、托鉢修道士や修道女と同じ理念にしたがい、同じ誓願を立てたいと望む信徒のためにつくられた団体であり[4]、「律修会」「修道女会」「在世会」から成る[1]。この会は、1447年、教皇ニコラウス5世の許可を受けている[4]

広義のフランシスコ会は以上3つの会の総称であるが、狭義には第一会のみをフランシスコ会と称する。さらに、フランチェスコの死後、第一会は「小さき兄弟会」「コンベンツァル聖フランシスコ修道会(コンベンツァル会)」「カプチン・フランシスコ修道会(カプチン会)」の3つの会派に分かれたが、最狭義の「フランシスコ会」は以上のうち改革派フランシスコ会「小さき兄弟会」を指している。

基本理念と会則

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フランシスコ会の基本理念は、貧しいイエス・キリストの生涯を範として、その福音使徒と同様忠実に生き、ローマ教皇に対してはあくまでも従順をつらぬき、人びとに「神の国」と改悛(悔い改め)を説くことにあった[1]。かれらは粗衣に裸足宣教しながら各地をめぐり、とくに会として個人として一切の所有権を放棄し、貧しいなかで手仕事により生計を立て、不足する部分については他者の喜捨にたよった[1]

フランシスコ会は、同時代に設立されたドミニコ会とともに、居住する家屋食物ももたず、人びとの施しにたよったところから「托鉢修道会」ないし「乞食僧団」とよばれ、どの教会管区にも属さず、ただローマ教皇にのみ属した[7]。フランシスコ会は、清貧と禁欲の生活を理想としており、その戒律ベネディクト会のもの(服従、清貧、童貞)と大きな点で相違はなかったが、ただし、これを文字通りに、また、徹底的に実行した点で従来のベネディクト派の修道会とは異なる性格を有している[7]

1221年につくられたフランシスコ会の会則は、以下のような内容である[8]

われらの主イエス・キリストの福音を守り、服従のうちに生き自分の物な何も持たず、常に貞節のうちにあらんことを。修道士は頭巾付き上着1枚だけ持ち、履物は必要な者だけに許される。衣服は着古したもので、袋地か、ぼろでつぎはぎさるべきこと。高価な衣装を着、美味な飲食物を食べている人を見ても軽蔑したり裁いたりしてはならず、むしろ自分自身を裁き軽蔑せよ。直接にせよ間接にせよ金銭を受け取ってはならず、何物も所有せず、清貧と謙譲のうちに主に仕え、喜捨を請うことを恥じず、清貧を友とせよ。

沿革

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教会改革と清貧運動

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インノケンティウス3世と謁見するフランチェスコ一行(13-14世紀のフレスコ画ジョット・ディ・ボンドーネ作)

聖者フランチェスコ(ジョヴァンニ・フランチェスコ・ベルナルドーネ、アッシジのフランチェスコ)の活動の舞台となったアッシジはイタリア半島中部ウンブリア地方の古い街市であり、フランチェスコはアッシジの富裕な毛織物商ベルナルドーネ家の長男として生まれた[2][5]。若いころは放蕩生活も経験したフランチェスコは、1206年、サン・ダミアノ教会の十字架から「早く行って私の壊れかけた家を建て直しなさい」という声を聞いて決定的な回心に至り、その神の啓示どおり教会の修復から本格的な宗教活動を開始した[3]。フランチェスコは托鉢しながら平和、清貧を唱えていくうち、しだいに互いに「兄弟」と呼びあう同志が増え、12人の仲間(11人説もある)とともに「小さき兄弟の修道会」(Ordo fraterorum minororum) と名乗るようになった[2]。12人の仲間とは、

  1. クインタヴェッレのベルナルド
  2. カッターニオのピエトロ
  3. エジディオ
  4. サッパティーノ
  5. モリコ
  6. カンペッロのジョヴァンニ
  7. フィリッポ・ロンゴ
  8. サン・コンスタンツォのジョヴァンニ
  9. バルバロ
  10. ベルナルド
  11. アンジェロ・ディ・タンクレディ
  12. シルヴェストロ

であった。集まった弟子の出自はさまざまであった。法学博士の財産家(ベルナルド)がいれば聖堂参事会法律顧問(ピエトロ)がおり、騎士(アンジェロ・ディ・タンクレディ)もいれば、司祭(シルヴェストロ)や農民(エジディオ)もいた[3]。この集まりはまた、当初は正式な組織ではなく、フランチェスコ自身も聖職者ではなかったが、1209年ローマ教皇インノケンティウス3世の認可を得て活動するようになった(11人説ではシルヴェストロの入会が1210年ころとなる)。インノケンティウス3世は、放置しておけばローマ教会への批判勢力となりかねないフランチェスコたちの清貧運動を、むしろ積極的に保護下においたほうがよいとの判断にもとづいて認可をあたえたものと考えられる[9]。これにより正式な修道会となったフランシスコ会は、その後もローマ教会に対する忠誠を長くまもり続けていった[9]

第二修道会の中心となったアッシジのキアラ

1215年にはアッシジの有力貴族の息女でありながら、家を飛び出してフランチェスコにしたがったキアラ(クララ)を中心に、第二修道会(女子修道会)が活動を始めた[2]

また、1221年頃には在俗の「償いの兄弟姉妹の会」(第三会、略称OFS)が組織された[2][10]。この在俗の会の創設は、フランシスコ会ならではのものであり、フランチェスコ自身の強い意向のもと創設されたものだが、歴史的にも大きな役割を演じた。

なお、12世紀以来、一般信徒のなかでは俗語訳の聖書を読み、それについて互いに語り合って信仰を深めあおうとする運動が起こっており、ヴァルド派フミリアーティはそうした新しい言葉への期待を察知して運動に応えていったが、教会はむしろワルドー派を破門に処すなど、信徒の信仰生活のなかで生まれた希求に充分に応えることのできない状況にあった[11]。しかし、1200年前後には、ペトルス・カントールを中心とするパリの神学者たちが新しい社会からの要請に応えた司牧の神学を模索するなど、ひとつの転機をむかえていた[11]。フランチェスコの回心とフランシスコ会の創設は、そうしたさなかにおこなわれたのであった[11]

1215年、フランチェスコは教皇インノケンティウス3世の主催する第4ラテラン公会議に修道士のドミニコ(ドミニクス・デ・グスマン)とともに招かれ、ローマを訪れた。フランチェスコの教会組織における位階は、最も低い助祭にすぎなかったが、彼の出席は教皇権とフランシスコ会の将来にとって大きな意味をもった[10]。第4ラテラン公会議はまた、ペトラス・カントールらの神学に制度的な形をあたえたのであった[11]

修道会組織の形成と発展

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ホノリウスに説くフランチェスコ
フランチェスコは、アッシジの聖母マリアの礼拝堂の修復後、毎年、礼拝堂の献堂記念日に礼拝に訪れた人に完全な免償をあたえるようホノリウス3世に頼んだ(13-14世紀。ジョット・ディ・ボンドーネ作)

上述のとおり、1209年、「小さき兄弟の修道会」設立についてインノケンティウス3世より承認を受け、このときの簡単な会則は「原始会則」ないし「第一会則」と呼ばれるが、急速に発展する修道会内部の問題に対処するにはあまりに簡素に過ぎたため、1221年には会則の改訂が行われた[3][9]。しかし、この会則は教皇ホノリウス3世の認可を得ることができなかったため、新たにホノリウスの腹心ウゴリーノ枢機卿(後のグレゴリウス9世)などの協力を得て、教会法の規定を取り入れた会則(第二会則)を制定し、1224年に教皇ホノリウスの教書によって認可された[3][12]。これにより、動産不動産いっさいの財産取得と所有の禁止を盛り込んだ托鉢形式の福音活動が実践されることとなった[12]

インノケンティウス3世の口答での約束からホノリウス3世の正式認可までの十数年間のフランシスコ会の発展ぶりは驚異的なものであった[3]1216年に正式に認可されたドミニコ会の会員が、1217年頃はまだ20人程度の仲間しか持たなかったのに対し、口約束で認められただけのフランシスコ会は同じ頃すでに数千人の同志を集めていたのである[3]。彼らは、都市を中心に説教と告白聴聞をおこない、各地の司教の許可がなくても自由に説教することが許されていたため、しばしば教区の在俗聖職者と対立したが、彼らが発展させた人間イエスやその聖母に対する新しい信仰心は中世後期の民衆キリスト教の成熟に大きな影響をおよぼした[9][11]

1226年のフランチェスコの死後、第2代総長となったのがジョヴァンニ・パレンティ英語版であった。その死後も、フランチェスコの人柄を慕う数多くの弟子たちが続々と修道会のもとに集まり、灰色頭巾つきの修道服に帯ひもをしめ、裸足サンダル履きの質素な身なりで苦行に近い清貧な生活を送りながら活動の規模を広げていった[12]1232年にはコルトナのエリア英語版(エリア・ボンバローネ)が第3代総長となっている。最初期のフランシスコ修道会の組織は、終身の総長のもとに全会員に対して責任と権限を持つ中央集権的なものであったが、第3代エリア総長の時代、彼の強権的な修道会運営に反対運動が起こり、1239年の総会議からは各地の管区に大幅な裁量を認める地方分権的な組織体制が採られるようになった。この運動で指導的役割を演じたのが、のちに第5代総長となったファヴァーシャムのハイモ英語版で、彼はこの地方分権体制をドミニコ会の組織に倣ったという。フランチェスコの死後の100年間で、フランシスコ会の会員数は3万人を超えるまでにふくれあがった[1]

当時のフランシスコ会の成長の背景として考えられるのが、都市化とそれにともなう人びとの宗教的欲求の変化であった[6]。すなわち、フランチェスコのはじめた清貧運動がこのように短期間で巨大な広がりをもったことは、「新しい言葉」の担い手を希求していたローマ教会の後援によるばかりではなく、フランチェスコ自身の個人的な回心の体験が当時の社会、特に都市における新興エリートのかかえた精神的な危機を体現したためであり、また、その危機にひとつのかたちで応答したからであったろうと考えられるのである[11]。都市化の進展により、人びとは旧来のような農村共同体を基盤とする、教区教会を中心として司祭を唯一のの導き手とするような信仰生活では飽き足らなくなっており、その一方で新しい産業の勃興、新職業の成立、貧富の格差の顕在化、無軌道な営利追求や拝金主義、性的放縦など、都市化そのものが引き起こす諸問題に直面するようになっていた[6]

こうして、信仰の内面化が進行し、個人としての信仰の確立が求められるようになったのに加え、それと都市生活との折り合いを図る必要が生じた[6]ローマ教皇庁もまた、托鉢修道会が一所定住の掟をやぶり、過激な福音主義を説く点では、異端に近い要素をかかえていたことを承知しながらも、このような動きをうまく利用することで、異端の消滅と市民の教導という当時教会がかかえていた最も重要な懸案をともに解決することが可能であるとみて、これを承認し、ときには支援したと理解される[6][注釈 1]。実際上も、フランシスコ会は、ドミニコ会同様、異端審問官として活動することにより、異端に対する強力な防波堤となったのであった[11]

しかし、フランチェスコの回心はきわめて個人的で、また彼にとってきわめて実存的な経験だったのであり、実のところ、これほど教団組織の発展になじまないものはなかった[13]。フランチェスコ本人が経験した、その直接性は彼の存命中にすでに修道会の発展の前に力を失いつつあり、フランチェスコ自身もそれに気づき、彼は最晩年、自らの創設した修道会の運営を他者に任せて自分は少数の最初から同志とともに隠修士の生活を送った[13]。そのあいだ彼は「遺言」も書いているが、その「遺言」とは、会則は福音書におけるキリストと使徒の生活を示したものであり、一切の註釈も加えずにそれを実践すること、および教皇からいかなる特権も受けないことであった[13]。歴代教皇からは、この「遺言」は黙殺され、そして、修道会はフランチェスコ自身が懸念した方向に向かっていったのである[13]

修道会の聖職化

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パドヴァのアントニオ

設立当初のフランシスコ会は修道士の割合が非常に高く、司祭や神学者など教導職にある者はほんのわずかであった。そうしたなかで、リスボンに生まれ、フランチェスコの思想に共鳴してフランシスコ会に初期の段階で入会し、のちに教会博士とされたパドヴァのアントニオ(リスボンのアントニオ)は数少ない神学者のひとりであった[1]。初期のフランシスコ会に教導職が少なかったことには、創設者のフランチェスコが貧しさを礼賛することにかけては徹底しており、物質的な豊かさのみならず、精神的ないし知的な豊かささえも認めなかったことが影響している[10]。この点は、同じ托鉢修道会ではあったが学問理論の重要性を認め、当初から聖書研究や神学教育がさかんであったドミニコ会とも異なる点であり、フランチェスコ自身は「心貧しいことこそ神の御心にかなう」と主張し、修道士に学問や書籍は不要とさえ述べたのであった[10]

しかし、フランシスコ会は一方では当初より説教活動を活動の中心にすえており、また当時の異端思想との対決の必要性からも、しだいに神学的知識が必要とされてきた。ローマ教皇庁もドミニコ会とともに異端撲滅への寄与をフランシスコ会に期待していた。こうして、フランシスコ会はドミニコ会の影響もあって学問研究に関心を強めるようになった。1235年イングランド出身でパリ大学教授であったヘイルズのアレクサンデル英語版がフランシスコ会に入会したが、このことがフランシスコ会において神学的研究の土壌がかたちづくられる契機となった。また、1239年から第4代総長の地位にあったピサのアルベルト英語版は司祭出身の初めての総長であった。こののち、フランシスコ会は司祭修道会としての性格を強めるとともに、さらに学問研究にも力を注いだ[1]

1240年にファバーシャムのハイモが第5代総長となると、神学研究はますますさかんになり、各地の管区で研究機関や学校も徐々に整備されていった。しかし、本来的な清貧運動を重視する原理主義的な会員の間からは、こうした学究的傾向に対する不満の声も上がり、これら少数派は、後述のように修道会内で異端運動を起こすようになり、「清貧論争」を引き起こす原因となった。1244年にはイエージのクレセンチオ英語版が第6代総長となった。

ヘイルズのアレクサンデルはのちにスコラ哲学の一潮流となるフランシスコ学派の祖となった。彼のもとに学んだドミニコ会修道士のトマス・アクィナスとフランシスコ会のボナヴェントゥラはともに著名な神学者であるが、ボナヴェントゥラはプラトン主義に基づいて範型論と照明論を唱え、アリストテレスの思想に依拠するトマス・アクィナスの学派とともに神学上の二大潮流を築いた。ボナヴェントラとトマス・アクィナスの間では、とくにアリストテレスの受容をめぐって、たがいに対する深い友情と尊敬の念を基調としながらも、鋭い論争が繰り広げられた[14][注釈 2]

フランシスコ会総長からローマ教皇となったニコラウス4世(ジロラモ・マッシ)

ボナヴェントゥラ以後では、オックスフォード大学ドゥンス・スコトゥスオッカムのウィリアムがフランシスコ学派の著名な神学者である[5]。オックスフォードからは、他にロバート・グロステストロジャー・ベーコンがあらわれ、イギリス経験主義哲学の基礎が築かれた[1]。なお、ボナヴェントゥラの後を引き継いでフランシスコ会総長となったジロラモ・マッシは、1288年ニコラウス4世としてローマ教皇に登位し、死去する1292年まで教皇職にあった。

このように、フランシスコ会は会の認可から80年も経たぬまでの間にローマ教皇として登位する人物が現れるほどの大成長を遂げることとなったが、アッシジのフランチェスコが本来語っていた清貧とは、個人としても共同体としてもいかなる財産をも所有することなく、もっぱら手工業生産と人びとからの托鉢によるその日暮らしの漂白の異人として、巡礼者として生きることを意味していた[13]。しかし、フランシスコ会発展にともなってフランシスコ会士は都市における司牧の役割を担うようになり、説教のための拠点(修道院)と空間(教会)を所有し、学問研究のための設備や手段を備えることが必要となってきた[13]。フランシスコ会は、13世紀中葉ころまでに歴代教皇の恩顧によって司牧活動における諸々の特典を認められており、それが各地の司教の反発を呼ぶほどとなっていた。

1279年に教皇ニコラウス3世が「エクスィト・クィ・セミナート」でフランシスコ会の司牧特典を擁護すると、これをめぐって激しい論争が起こった。これが問題とされたのは、この時期の貨幣経済の進展によって司教たちが秘蹟の授与など司牧活動に収入源を大きく依存するようになったことと、フランシスコ会への特典がすべて教皇の個人的な恩顧によるもので、教会法上には何ら規定がなく、法的位置づけが曖昧な状態のままになっていたことにあった。

1300年、教皇ボニファティウス8世教皇勅書「スーペル・カテドラム」を出してこの問題を決着させようとし、聴罪葬儀に関わる限定的な一部の規定以外の特典を廃止する決定を下した。しかし、これに対するフランシスコ会側の反発は大きく、1304年にボニファティウスの教勅はいったん撤回されたが、教皇クレメンス5世の時代に教会法への規定が盛り込まれることとなった。

その一方、ローマ教皇によって認可され、教皇庁により各種の特権をあたえられ、教会法に位置づけられるようにもなったフランシスコ会は、いまや完全に教会ヒエラルキー内部の1つの制度と化した。そのなかで、フランチェスコが述べた「キリストの清貧」の思想は教会法やスコラ哲学によって再解釈され、ますます思想的生命を失ったものとなり、現実から離れた1つのイデオロギーへと堕していった[13]

なお、13世紀中葉以降から14世紀にかけての時期、モンゴル帝国に派遣されたプラノ・カルピニウィリアム・ルブルックジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノジョヴァンニ・デ・マリニョーリはいずれもフランシスコ会出身の修道士や司祭であった。

スピリトゥアル主義とコンヴェントゥアル派

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改革派小さき兄弟会の中にスピリトゥアル派を生むことになったフィオーレのヨアキム

フランシスコ会は教皇によって教会制度の中枢に結びつけられ、「キリストの清貧」は制度化された[13]。フランチェスコ晩年にはイタリアからヨーロッパ各地へと説教活動が拡大し、教区での司牧活動が本格化していくなかで、早くもフランチェスコ自身の一種ユートピア的要請を包含する会則の厳格な適用を緩和しようとする動きが起こっているが、ローマ教皇庁はそれに対し、積極的に緩和の動きに応じている[13]。それは、修道会組織の強化のためには、「無所有」を旨とする会則の厳格な適用が大きな障害となったからであり、第二会則の改正に携わったグレゴリウス9世と、1243年から教皇となったインノケンティウス4世は一連の教皇勅書を発して、無所有の絶対的清貧の原則と物質的必要という現実とを調和させるための法的解釈を導入した[13]。それは、財の「使用」と「所有」を区別し、財の「所有」は認められないが「使用」は認められるというものであった[13]。逆言すれば、「清貧」は法的解釈として「所有権の放棄」と見なされ、修道会が使用する財産の所有権は教皇座に帰属し、フランシスコ会は教皇の財産を「使用」するだけであると理解されるようになったのである[13]。そして、この立場は、ボナヴェントゥラ『清貧擁護論』(1269年)によって理論化され、上述のニコラウス3世の教勅「エクスィト・クィ・セミナート」(1279年)ではローマ教会の公式見解とされた[13]。こうして「所有」と「使用」を区別することによって生じた「無所有」という虚構の上に、現実には修道会に寄贈された財産を自由に利用できる道がひらかれた[13]

いっぽう、1241年ないし1243年フィオーレの司教が神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(フェデリーコ)に圧迫されて、ピサのフランシスコ会修道院に逃れてきたとき、フィオーレのヨアキムの著作を持ち込んだといわれる。フリードリヒ2世はローマ教皇と対立し、インノケンティウス4世から破門されているが、いずれにせよ、ここから異端となったヨアキム主義がフランシスコ会修道士の一部に蔓延するようになったものと考えられている。1255年、フランシスコ会士のボルゴ・サン・ドンニーノのゼラルドによってヨアキム主義的な『永遠の福音入門』が出版された。教皇アレクサンデル4世がヨアキム主義を公式に断罪すると、フランシスコ会の第7代総長パルマのヨハネ英語版(パルマのジョヴァンニ)がヨアキム主義に好意的であったことから指弾され、1257年、神学者として知られるボナヴェントゥラが新総長となった。

聖ボナヴェントゥラ
フランシスコ学派を代表する神学者。第8代総長

ボナヴェントゥラは、上述のように13世紀スコラ哲学を代表する神学者であり、また、カトリック教会内部におけるフランシスコ会の地位を確固としたものにした業績で知られている[13]。彼は『清貧擁護論』でフランチェスコの清貧の精神と修道会の財産保持が両立可能なものであることを主張したが、その際、宗教生活としての「清貧」の価値をなおも維持しようと努めた。ボナヴェントゥラによれば、財の使用は人間の自然にもとづくものである以上、現世においてはその放棄は不可能であり、イエスや使徒たちの清貧生活も財使用そのものの放棄なのではなく、あくまでも所有権の放棄だったはずである。しかし、財の使用はあくまでも生存に必要最低限なものであるべきであり、それはイエスが実践したものと一致しなければならない。これが「キリストの清貧」の拠って立つ意味である——ボナヴェントゥラはこのように述べて、理想現実のあいだに微妙な均衡を設定しようとした[13]

しかし、清貧の緩和化のもたらした帰結は甚大なものであった[13]。フランチェスコ個人にとってイエス・キリストとの神秘的な合一の体験でもあった清貧は、「所有権の放棄」という法的形式にすぎないものとなり、人びとの宗教生活のあり方としては形式化・形骸化をまぬがれなかった[13]。「清貧」はまた、逆説的にもローマ教皇の財産所有権を前提にすることとなった[13]。フランチェスコの遺言に忠実で、「アッシジの聖者フランチェスコ」に対する強烈な記憶を鮮明に保持している人びとは、こうした事態に直面して、しだいにフランシスコ会の体制から離れていったのである[13]

13世紀後半に北イタリアと、特にラングドックを中心とする南フランスで、このヨアキム主義の影響を受けたフランシスコ会の少数派が清貧の厳格な実践を唱えるようになった[15]。これをスピリトゥアル主義(心霊派、聖霊派、厳格派)と呼んでいる。2つの党派は1280年頃までに分裂した[15]。緩和を推進する修道会指導部を中心とする主流派はコンヴェントゥアル派と呼ばれ、清貧をもっぱら法的な観点から理解し、それが所有権の完全放棄のみを意味するのであり、財の使用の制限は義務ではなく、あくまでも努力目標にすぎないと主張した[13]。急進的なスピリトゥアル派は、これに対し、会則の文字通りの実践、すなわち、アッシジのフランチェスコが生存実践していたような、「裸のキリストには裸で従う」という生活実践としての清貧を主張し、財の使用における貧しさがなければ清貧の名に値しないと主張した[15]

北イタリアのスピリトゥアル派は、1280年以降フランシスコ会内部で弾圧を受けたが、のちに許されて教皇ケレスティヌス5世によって「教皇ケレスティヌスの貧しき隠遁者」として分離が赦された。ただし、存命中に退位したケレスティヌスの後継教皇で、ケレスティヌス退任にも関わったといわれる教皇ボニファティウス8世は、これを弾劾した。

清貧論争の激化とその帰結

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「清貧論争」におけるスピリトゥアル派の理論家として知られるのが、ペトルス・ヨハンニス・オリーヴィ英語版(ピエトロ・ディ・ジョヴァンニ・オリーヴィ)である[15]。オリーヴィが唱えた「貧しき使用」論は、問題の本質が法的権利の如何にあるのではなく、宗教生活の実践にあることを主張し、厳格派の人びとからの絶大な支持を得た[15]。オリーヴィによれば、「貧しき使用」こそがフランシスコ会の本質であり、修道会に加入する際の誓願に絶対的義務として掲げられている条目である[15]。それゆえ、それはあらゆる機会、すべての行為において全面的に営まれていかなくてはならない実践項目である。その厳格な清貧を実行にうつしてこそ、人間は世俗の財への執着を滅して、この世から離脱して霊的に自由な身となるのであって、それこそがいわば人間の霊的完成の条件たりうるものであった[15]。彼らは聖人フランチェスコのカリスマを絶対視し、その会則をキリストとの神秘的な一致に由来を発していると考え、会則はキリストの福音と同じである、とした。それゆえ、会士たるものフランチェスコの「遺言」に忠実で、「裸のキリストには裸で従う」清貧を文字通り実践していかなくてはならない、と考えるのである[15]。したがって、彼らが教皇特権に依存する修道会のあり方に反対するのも当然であり、オリーヴィ自身はあくまでも修道会にとどまって清貧実践の道を模索したが、彼の影響を受けたスピリトゥアル派は修道会の外部に独自の集団を形成しようと試みた[15]

コンヴェントゥアル派とスピリトゥアル派の対立が先鋭化し、前者による後者迫害と後者の分派活動が明白になったのは、1280年代のことである[15]。上述のようにスピリトゥアル派の中心は南フランスと北イタリアであった。開祖フランチェスコが活動したアッシジを含む中部イタリアは、他地域にもまして彼の事績が濃厚な記憶として残っていた[15]。イタリアのスピリトゥアル派は早い時期より迫害され、修道会から分離し、やがて流浪の身となり、スピリチュアル派の立場に共感するアラゴン王家フェデリーコ2世が統治するシチリア王国へ逃走した[15]。彼らは「フラティチェッリ英語版Fraticelli と称されるが、「清貧論争」の表舞台からは姿を消した。また、北イタリアのスピリトゥアル派は指導者アンジェロ・クラレーノの名前から「クラレーニ」と呼ばれ、のちにオブセルヴァンテス改革派に合流した。したがって、清貧論争の中心となったスピリトゥアル派の拠点は南仏のラングドックであった[15]

ラングドックでは、1280年代からオリーヴィが「迷信的なセクトの頭目」と非難され、論争が激化した。彼の教えはスピリトゥアル派の修道士たちに霊感をあたえただけではなく、多くの在俗の信徒の支持も集め、ひとつの宗教運動を巻き起こしつつあった。しかし、それゆえに警戒感をいだかれ、オリーヴィの著作は禁書となり、スピリトゥアル派の修道士は追放され、監禁されるなどの迫害に遭遇した。スピリトゥアル派の指導者のひとりであるカザーレのウベルティーノによれば、14世紀初めの10年間で300名を越える会士が迫害を受けたという[15]。厳格派として出発したスピリトゥアル派の一部の修道士は第一会則を厳守して絶対の清貧を守るべきだと主張し、また、代々の教皇はフランチェスコ会の内紛の仲裁を依頼した[16]

アヴィニョン教皇庁

1303年アナーニ事件の直後教皇ボニファティウス8世が死去し、ベネディクストゥス11世が登位したが短期間に終わり、枢機卿団が分裂して教皇選挙(コンクラーヴェ)の実施に困難が生じた。また、アナーニ事件の事後処理に絡んでフランス王国の王フィリップ4世(端麗王)の干渉によって、1309年、教皇庁がアヴィニョンに移るという事態が生じた(アヴィニョン捕囚)。アヴィニョン教皇庁での初めての教皇となった、フランス出身のクレメンス5世は、ラングドックのスピリトゥアル派に対し、比較的好意的な態度を示した。1309年、スピリトゥアル派支持者からの求めにより、教皇は教皇庁内にフランシスコ会の問題を調査する委員会を設け、両派の代表をアヴィニョンに招いた[15]。両陣営の代表はそれぞれの立場を主張したが、クレメンス5世の好意的な姿勢により、スピリトゥアル派の修道士は他の会員たちとは異なった生活を続けることができたのである。しかし、両陣営の立場の違いは、そのまま教皇の教会法的権威かそれとも聖者フランチェスコのカリスマか、究極的にはどちらを権威とするかという対立に連なっていた[15]

クレメンス5世死去後、2年の空位期間ののち、1316年ヨハネス22世が教皇として登位した。アヴィニョン教皇庁の新教皇ヨハネス22世は、1317年、ついに「清貧論争」への決着を付けた。彼はナルボンヌ(南仏・オード県)とベジエ(同エロー県)のスピリトゥアル派修道士に対し、「短い僧衣」を捨て、総長に服従すべしと命じたのである[17]。「短い僧衣」とは、スピリトゥアル派の「貧しき使用」実践の象徴となっていたもので、これを捨てることは彼らに自身のアイデンティティを放棄するよう命じたものにほかならない[17]。そして、両所のスピリトゥアル派61名を名指しで呼び出し、10日以内にアヴィニョンに出頭して教皇の前で先の命令に対して返答すること、査問を拒否する者は破門に処することを申し伝えた[17]。ナルボンヌとペジエの修道士たちはアヴィニョンを目ざし、5月22日深夜アヴィニョンの教皇宮殿の門前にたどりついた[17]。査問の光景はアンジェロ・クラレーノの筆を通じて知ることができる。教皇は多数の顧問団に囲まれ立派な椅子に腰掛けており、一方の側にはコンヴェントゥアル派が、他方の側にスピリトゥアル派が控えた[17]。査問とは名ばかりで、実際には逮捕のための口実にすぎなかった。「教皇聖下、正義を」の叫びのなか、スピリトゥアル派の会士はひとりひとり連行され、投獄された[17]

ヨハネス22世

アヴィニョンに呼び出されたスピリトゥアル派の修道士が監獄に収容されている間、数か月は何ごともなく過ぎたが、1317年10月、ヨハネス22世は教皇勅書『クォルムダム・エクスィギト』を発し、フランシスコ会の修道士は、修道会総長が粗末な僧衣をやめさせ、穀物倉・ワイン倉の設置を認可する権限をもつことを認めよと命じた[17]。教勅は「清貧は偉大なり。然れども、公正はさらに偉大であり、もし完全に保たれるならば、すべての中で服従こそがもっとも善きことである」のことばで結ばれていた[17]。結局、ヨハネス22世が求めたことは修道会総長の権威に、そして最終的には教皇の権威に服従することであった[17]

この教勅を受けて、16代総長のチェゼーナのミケーレ英語版は、60余名の収監中のスピリトゥアル派修道士に教皇への服従を求めた。多数の修道士はこれにしたがったが、なおも20名は抵抗した[17]。そこでヨハネスは抵抗するスピリトゥアル派についての判断を13人の神学者からなる委員会に諮問した。神学者たちの答えは、あくまでも服従を拒み続けるのであれば、異端として断罪されるべきであるという見解で一致していた[17]。ヨハネスはなおも教勅を受け入れない修道士をフランシスコ会の異端審問官僚ミシェル・ル・モワーヌに委ねた[17]。最終的には5名を除いて異端的立場を捨て、教皇と総長に恭順を誓った。最後まで不服従を貫いた5人は「異端」とされ、直前に悔悛した1名のみ終身刑に処せられ、他の4名は世俗の手に渡され、1318年5月7日マルセイユにおいて火刑に処せられた[17][注釈 3]。ローマ教会が公認した会則にあくまでも忠実であろうとした人びとが生きながら火あぶりに処せられた、その光景には多くの人びとが衝撃を受けた[17]。こののち、1328年までの10年間、異端審問による異端狩りがおこなわれた。マルセイユやモンペリエトゥルーズなどから多くの男女が、地方の司牧権力や世俗権力からの協力を得て、逮捕され、異端審問官たちによって尋問された。異端狩りの対象となったのは、スピリトゥアル派の信念を曲げなかった人びとと「ペガン」と呼ばれた多くの在俗信徒(第三会)の支持者たちであった[17]

1322年、フランシスコ会総会はキリストと12使徒私有財産を保有しなかったのは正当な神学的見解であることを公式に表明した[16]。この見解はスピリトゥアル派に近い考えであったため、ヨハネス22世はこれを異端と非難、フランシスコ会は教皇に従う者と従わない者とで再び分裂した[16]

一方、こうした厳しい弾圧に対し、スピリトゥアル派はフランシスコ会主流派のみならずカトリック教会に対しても公然と反抗、修道士たちは教皇制度の批判を展開した[18]。教会はイエス自身もを尊重していたと主張し、スピリトゥアル派(厳格派)に対する異端審問を強化して監禁や火刑に処し、さらに彼らの修道院を破壊するなど弾圧を加えた[18]。ヨハネス22世は次々に教勅を発布して、今までフランシスコ会にあたえていた特権を撤回し、「キリストの清貧」をあくまでも主張することは異端的であるとして、清貧の立場からのあらゆる批判を封じようとした。これはしかし、フランシスコ会主流派をも動揺させ、総長チェゼーナのミケーレやペルガモのボナグラフィア、オッカムのウィリアムらは、教皇を「異端」と非難し、1328年、ヨハネス22世と対立していた神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世のもとに逃れ、ヨハネス22世の廃位を要求した[19]

スピリトゥアル派もまた、皇帝ルートヴィヒ4世と連携し、フランシスコ会員のピエトロ・ライナルドゥッキを対立教皇ニコラウス5世としてローマに擁立する事態となった。同年、ルートヴィヒは、アナーニ事件の首謀者のひとりでコロンナ家のシアッラ・コロンナからローマ市民を代表して帝冠を受け、ヨハネス22世の教皇廃位を宣言した[16]。しかし、1330年、対立教皇ニコラウス5世はアヴィニョンのヨハネス22世に降伏した。チェザーレのミケーレの流れを汲む人びとは、のちに南イタリアのナポリ王国やシチリア王国に逃れ、「フラティチェッリ」と呼ばれるスピリトゥアル派の残党と合流した[19]

スピリトゥアル派の反抗が終息したのはようやく1354年になってからのことであった。しかし、彼らの主張はそれ以前にすでに多くの支持者を集めていたのであり、『黙示録註解』を著したラングドックのペトルス・ヨハンニス・オリーヴィは、「ペガン」と呼ばれた一般信徒たちから「非公式の聖人」として崇敬されたのであった[18][20]

オブセルヴァンティス改革運動とカプチン会、コンヴェントゥアル派

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カプチン会をひらいたマテオ・ダ・バッシ

1378年から1417年にかけてのいわゆる「教会大分裂」の時代には、フランシスコ会もそれぞれの教皇を支持して分立する状態となった。

教会大分裂がおこったときの総長はレオナルド・ロッシ英語版であったが、アヴィニョン教皇クレメンス7世を支持したために、ローマの教皇ウルバヌス6世はルドヴィゴ・ドナティを総長代理とするなどフランシスコ会の人事に介入した。1409年にピサで公会議派の教皇アレクサンデル5世が選出されると、当時のローマ派の総長アントニオ・ヴィニティはピサ派に同調し、ローマは別の総長を立て、フランシスコ会も三分した。分立した各教皇は自派にフランシスコ会を引き込んで、さまざまな恩典を付与したために、フランシスコ会は再び分裂したのみならず内部の腐敗が進み、「清貧」の精神は弛緩した。それぞれの総長も自己の基盤をより確実なものにするために、これに乗じてさまざまな特典を会士たちに与えたので、規律の乱れはいっそう増長した。1471年にローマ教皇に就任したシクストゥス4世(コンヴェンツアル派)が教皇に選ばれた理由の1つは学識の高さであり、もう1つは有力者に気前よく賄賂を送ったことであった[21]。教皇になってからも6人ものを枢機卿に任じて親族登用をおこない、縁故主義により親類縁者に金銭と役職を惜しみなくあたえた[21]

一方、修道会内では、14世紀後半以降15世紀にかけて、このような修道会内部の腐敗に厳しい批判を向け、会則を厳格に守ろうとする運動が起こってきた。彼らの標語「会則の遵守(レグラーリス・オブセルヴァンティア、Regularis observantia)」から、このような改革派(原始会則派)をオブセルヴァンティス派といい、かつてのスピリトゥアル派的主張を吸収した。これにに対して保守派(修道院派)はコンヴェントゥアル派と呼ばれた。コンヴェントゥアル(コンベンツァル)とは、「Convent」(共住・修道院)の語に由来するもので、当時、都会に所在する修道院やそこに定住する会員を指した。この呼称は、聖フランシスコの生きていた時代から存在した。会則派(改革派)の運動は継続的なものとなり、やがてフランシスコ会の主流を占め、さらに、16世紀には会則派のなかから、イタリアのレフォルマーティ派、フランスのレコレクト派、スペインのアルカンタラ派など内部改革の運動が生じた[22]

1517年、教皇レオ10世によってコンヴェンツアル派と改革派は正式に分割されたが、正式な修道会としての成立はレオ十三世の治世を待つ。主流派は改革派となった[22]

1525年には、イタリアのサン・ポーロ・デンツに近いモンテファルコーネ修道院マテオ・ダ・バッシ英語版(マテオ・バスキ)が改革派(オブセルヴァンティス小さき兄弟会)のなかから後の「カプチン小さき兄弟会」を起こした[22]。カプチン会は、1528年、ローマ教皇教皇クレメンス7世の認可を受け、こうして、修道会派・会則派・カプチン会の3つの分派が成立した。1538年には南イタリアのナポリでクララ会から分派した女子カプチン会も創設されている。カプチン会は当初は「コンベンツァル小さき兄弟会」の庇護下にあったが、1619年に認可され、独立の修道会となった[22][注釈 4]

宗教改革以降の小さき兄弟会

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宗教改革の際にも小さき兄弟会の会員は5万人の会員を擁し、18世紀中葉にはその数は13万人以上に増加している[1]

上記のように、小さき兄弟会では、会自体の刷新をめざして多数の改革派が生まれた。1897年、教皇レオ13世は会則派(オブセルヴァンティス派)の再統一をおこなっている[22]。フランシスコ会は現在、「小さき兄弟会」「コンベンツァル・小さき兄弟会」「カプチン・小さき兄弟会」に区別される[1]。なお、「アウシュヴィッツの聖者」といわれたマキシミリアノ・コルベはコンベンツァル会の出身であった。

20世紀後半(1986年)現在の会員数は、第一会の場合「小さき兄弟会」約2万人、「コンベンツァル・小さき兄弟会」約4,000人、「カプチン・小さき兄弟会」約1万1,900人、第二会「クララ会」が約1万7,000人、第三会の「律修会」約1,000人、「同修道女会」約17万7,000人、「在世会」約220万人となっている[1]

ヨーロッパ外への宣教

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フランシスコ会は設立間もない頃から、東方宣教に力をいれ、すでにフランチェスコ在世時に当時イスラームの勢力下にあったイベリア半島エジプトなどで活動する修道士がいたことが知られる。フランチェスコ自身も十字軍に同道し、中東で宣教をおこなっている。東方教会の根拠地である旧オスマン帝国領内などにあるカトリック教会は、現在でも、その多くがフランシスコ会によってその運営が支えられている。エルサレム聖墳墓教会ベツレヘム生誕教会ミルク・グロットなどはその好例である。

また、対抗改革の時期には、イエズス会やドミニコ会とならび、「新大陸」と称された北アメリカ大陸南アメリカ大陸アジアなどの海外宣教に積極的にたずさわった。

モンゴル帝国での活動と宣教

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フランシスコ会の成立した13世紀は、イベリア半島ではレコンキスタ、中東・地中海地域では十字軍のさなかにあったが、ユーラシア大陸ではモンゴル帝国が広大な版図を築いた世紀でもあった。ローマ・カトリック教会は、イスラーム勢力を挟撃するためにもモンゴルと和親を結ぼうとして、プラノ・カルピニウィリアム・ルブルックジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノジョヴァンニ・デ・マリニョーリを相次いでモンゴルに派遣したが、かれらはいずれもフランシスコ会の会員であった。特にモンテコルヴィーノは約30年間中国(元朝)に滞在し、大都(いまの北京)に教会を営み、『新約聖書』のモンゴル語訳・中国語訳を著述するなど、単に外交使節としてではなく宗教者としての活動が顕著であった。

インディアス宣教

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クリストファー・コロンブスの「インディアス」発見当時、フランシスコ会はドミニコ会とならんで多くの会員を擁し、活動的な修道会であった[23]。その一部には一種の終末論的傾向もあって新大陸への福音活動に対する熱意には強いものがあった[23]。フランシスコ会はコロンブスの計画の良き理解者として知られており、一貫して熱心な支持者でもあった[23]。コロンブスの1492年の航海の帰還報告はフランシスコ会士のあいだで大反響をよび、その2回目の航海に際しては少なくとも2名の会士が航海に同行し、サント・ドミンゴ島(イスパニョーラ島)での宣教の草分けとなった[23]1503年、最初の修道院がサントドミンゴに創設され、1505年にはサンタ・クルス管区が設けられてフランシスコ会士による宣教の恒久的な組織化に道をひらいた。

今日のアメリカ合衆国カリフォルニア州アリゾナ州ニューメキシコ州などの宣教もまた、メキシコヌエバ・エスパーニャ)より北上するフランシスコ会士によって始められた[23]。このように、インディアスの中心から地方に、さらに辺境へと向けて宣教していくことに関しては、フランシスコ会は先駆的役割を担い、また、宣教活動の範囲も数ある修道会のなかでも最も広かったものと推定される[23]。なお、ワシントンD.C.には、アメリカ・フランシスコ会史学会という学術機関があり、その歴史的研究をすすめている[23]

日本での活動と日本宣教

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ローマでの支倉常長ルイス・ソテロ

日本でのフランシスコ会の活動は、1593年ペトロ・バウチスタの宣教を嚆矢としている。

16世紀キリスト教伝来以降、フランシスコ会はすでに日本人の修道者会員・在世会員を獲得していた。17世紀なかばまで60名あまりが伝道に従事したが、秀吉ついで江戸幕府禁教政策の下、そのほぼ半数が殉教した[1]。開国後の1862年文久2年)、これらの殉教者の一部がピウス9世によって列聖されている[1]

現在、日本では3派合同して第一会約300名が活動しており[1]、フランシスコ会の聖書研究所ではカトリックの公認日本語訳聖書であるフランシスコ会訳聖書を刊行している。なお、1985年から2004年まで新潟教区長を務め、翌2005年1月に死去したフランシスコ・佐藤敬一司教もフランシスコ会の出身だった。

年譜

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  • 1209年 - アッシジのフランチェスコ、サンタ・マリア・デリ・アンジェリの礼拝堂でのミサで福音書の一節を聴き、自分の進むべき道を決定する。これらの言葉がフランシスコ会の最初の会則となる。
  • 1210年 - フランチェスコ一行、ローマで教皇インノケンティウス3世に引見され、会則承認の口約を得る。
  • 1211年 - フランチェスコ一行がローマから帰り、修道士たちは当初リヴォドルトに、ついでポルツィウンコラに住み、「小さき兄弟」を名乗る。
  • 1212年 - アッシジのキアラが修道会に入り、第二修道会生まれる。フランチェスコ、東方や西方への伝道を決断する。
  • 1215年 - 四旬節に最初の修道会総会開かれる。フランチェスコ、第4ラテラン公会議に出席し、ローマでドミニコ会の創設者ドミニクス・デ・グスマンに出会う。
  • 1217年 - 聖霊降誕祭にポルツィウンコラで修道会総会が開かれる。修道士らが各地に伝道の旅に出かける。
  • 1218年 - 枢機卿ウゴリーノ枢機卿、フランシスコ会の保護者となる。
  • 1219年 - フランチェスコが東方伝道のため出帆し、エジプトダミエッタスルタンに説教。修道会内部に「穏健派」と「心霊派」の対立起こり、イタリアへ帰還。
  • 1220年 - イベリア半島に宣教に出かけた5人の修道士がモロッコで殉教。
  • 1221年 - フランチェスコが修道士チェザリオとともに会則(いわゆる「教皇未認可会則」)を起草。「筵の総会」開かれる。この頃、第三会成立する。
  • 1223年 - フランチェスコがフォンテ・コロンボで起草した会則がホノリウス3世の勅書によって認可される。
  • 1226年 - アッシジのフランチェスコ、ポルツィウンコラで死去。
  • 1227年 - ジョヴァンニ・パレンティ、第2代総長となる。会の保護枢機卿ウゴリーノが、教皇グレゴリウス9世となる。
  • 1228年 - フランチェスコ、教皇グレゴリオ9世により列聖される。
  • 1230年 - アッシジに聖フランチェスコ大聖堂が新築され、フランチェスコの遺骸や遺品が移される。
  • 1232年 - エリア・ボンバローネ、第3代総長となる。教皇グレゴリウス9世がパドヴァのアントニオを列聖。
  • 1235年 - ヘイルズのアレクサンデルが入会。
  • 1239年 - ピサのアルベルトが第4代総長となる。
  • 1240年 - ファバーシャムのハイモが第5代総長となる。
  • 1244年 - イエージのクレセンチオが第6代総長となる。
  • 1246年 - フランシスコ会修道士プラノ・カルピニインノケンティウス4世の命によりモンゴル帝国の首都カラコルムを訪れ、グユクの即位式に出席。パドヴァの聖アントニオが教会博士の称号を冠せられる。
  • 1247年 - パルマのジョヴァンニが第7代総長となる。
  • 1253年 - 第二会(クララ会)認可される。
シエーナのベルナルディーノ

関連作品

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小説
映画

脚注

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注釈

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  1. ^ 現在、中世史家ジャック・ルゴフの提唱によって、ヨーロッパの都市化進行の経過を托鉢修道院の数や分布を1つの指標として検討しようという研究が進んでいる。佐藤&池上(1997)p.290
  2. ^ ジャン・ピエール・トレル『カトリック神学入門』によれば、ボナヴェントゥラをアウグスティヌス主義、トマス・アクィナスをアリストテレス主義というふうに一面的に断じるのは適切ではなく、また両者の思想がそれぞれの学派を代表したというのも事実とは微妙に異なるという。トレル(1998)
  3. ^ 教会の異端審問では、拷問の適用にはきびしい規制が課せられており、死刑を科すことはできなかった。死刑判決は世俗の裁判所の管轄となっていたので、強情な異端者はそこに引き渡され、刑の宣告や執行がなされた。マックスウェル・スチュアート(1999)p.197
  4. ^ 1536年、教皇教皇パウルス3世はカプチン会の活動をイタリア国内に限定したが、1574年に教皇グレゴリウス13世によって禁令が解除され、活動は世界各地に拡大した。
  5. ^ スペイン王国アビラ出身。ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)を経てマニラで布教中、フランシスコ会遣外管区長となった。

参照

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出典

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  • 堀米庸三『世界の歴史3 中世ヨーロッパ』中央公論社中公文庫〉、1974年12月。 
  • 今野國雄編訳『世界を創った人びと7 聖フランチェスコ-万物への愛と福音の説教者』平凡社、1978年1月。ISBN 4-582-47007-6 
  • 下村寅太郎長塚安司 著、講談社出版研究所 編『世界の聖域14 アッシジの修道院』講談社、1981年9月。ASIN B000J7V6LG 
  • 橋口俊介「フランシスコ会」『世界大百科事典 第25』平凡社、1988年4月。ISBN 4-58-202700-8 
  • 小林一宏「フランシスコ会-インディアス宣教」『世界大百科事典 第25』平凡社、1988年4月。ISBN 4-58-202700-8 
  • 今野國雄 著「フランチェスコとキアラ」、野上毅 編『朝日百科世界の歴史53 13世紀の人物 マルコ・ポーロ、聖フランチェスコほか』朝日新聞社、1989年11月。 
  • 藤沢道郎「聖者フランチェスコの物語」『物語イタリアの歴史』中央公論新社中公新書〉、1991年10月。ISBN 4-12-101045-0 
  • ピーター・ミルワード『素朴と無垢の精神史』講談社〈講談社現代新書〉、1993年12月。ISBN 4-06-149179-2 
  • 佐藤彰一池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論社、1997年5月。ISBN 4-12-403410-5 
  • P.G.マックスウェル・スチュアート 著、月森左知・菅沼裕乃(訳) 訳、高橋正男(監修) 編『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年12月。ISBN 4-422-21513-2 
  • J.M.ロバーツ(en) 著、月森左知・高橋宏 訳、池上俊一(日本語版監修) 編『世界の歴史5 東アジアと中世ヨーロッパ』創元社〈図説世界の歴史〉、2003年5月。ISBN 4-422-20245-6 
  • 石井健吾 著「フランシスコ会」、小学館 編『日本大百科全書』小学館〈スーパーニッポニカProfessional Win版〉、2004年2月。ISBN 4099067459 
  • 石井健吾 著「フランチェスコ(アッシジの)」、小学館 編『日本大百科全書』小学館〈スーパーニッポニカProfessional Win版〉、2004年2月。ISBN 4099067459 
  • 小田内隆『異端者たちの中世ヨーロッパ』日本放送出版協会NHKブックス〉、2010年9月。ISBN 978-4-14-091165-5 

参考文献

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執筆に当たっては以下の諸文献を参照している。

  • 川下勝著『フランシスカニズムの流れ』聖母文庫、聖母の騎士社 1988年。
  • M・D・ノウルズほか著、上智大学中世思想研究所編訳『キリスト教史4 中世キリスト教の発展』講談社、1991年。
  • C・S・クリフトン著、田中雅志訳『異端辞典』三交社、1998年。
  • ジャン・ピエール・トレル 著、渡邉義愛(訳)editor= 訳『カトリック神学入門』白水社〈文庫クセジュ〉、1998年11月。ISBN 4560058091 

関連項目

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外部リンク

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