平佐村
ひらさむら 平佐村 | |
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廃止日 | 1929年5月20日 |
廃止理由 | 新設合併 隈之城村、平佐村、東水引村 → 川内町 |
現在の自治体 | 薩摩川内市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 九州地方 |
都道府県 | 鹿児島県 |
郡 | 薩摩郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 | 6,407人 (『角川日本地名大辞典 46 鹿児島県』552頁、1925年) |
隣接自治体 | 上東郷村、下東郷村、樋脇村、永利村、隈之城村 |
平佐村役場 | |
所在地 | 鹿児島県薩摩郡平佐村大字平佐字横木3581番地[1] |
座標 | 北緯31度49分09秒 東経130度18分43秒 / 北緯31.81928度 東経130.31183度座標: 北緯31度49分09秒 東経130度18分43秒 / 北緯31.81928度 東経130.31183度 |
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平佐村(ひらさむら)は鹿児島県の北西部、薩摩郡に属していた村。1929年(昭和4年)5月20日に隈之城村、東水引村と合併し、川内町(1940年に市制施行し川内市)となり、自治体としては消滅した。
概要
[編集]川内平野の東部、川内川の南岸に位置しており、村の西端には川内町駅(のちの川内駅)が置かれ、鹿児島本線と宮之城線の分岐駅となっており、村の北端の楠元には楠元駅、西部の中には吉野山駅が設置された。
平佐村は天辰、平佐、楠元、中、久住の5大字から構成されており[2]、現在の薩摩川内市天辰町、平佐町、白和町、鳥追町、横馬場町、楠元町、中村町、久住町にあたる。村役場は大字平佐字横木に置かれていた。
沿革
[編集]江戸時代には薩摩藩の行政区域であった「平佐郷」に属していた村が町村制施行により合併し平佐村として成立した。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴いそれまでの平佐郷の区域であった白和町、天辰村、平佐村、楠元村、中村、久住村より、平佐村が成立。白和町は大字平佐の一部となり、その他の村は平佐村の大字となった。
- 1929年(昭和4年)5月20日 - 平佐村が隈之城村、東水引村と合併し川内町となる。
行政
[編集]- 村長:小原助市[1]
歴代村長
[編集]町村制施行以降の村長を記載する。『川内市史 下』169頁から170頁の表記に基づく。ただし、旧字体については新字体に置換えるものとする。
代 | 氏名 | 就任期間 |
---|---|---|
初代村長 | 落合訓彌 | 1889年 - 1891年 |
二代村長 | 広瀬昌柔 | 1891年 - 1895年 |
三代村長 | 田中弥七郎 | 1895年 - 1898年 |
四代村長 | 平島周介 | 1898年 - 1901年 |
五代村長 | 竜岡仁七郎 | 1901年 - 1905年 |
六代村長 | 落合訓彌 | 1905年 - 1908年 |
七代村長 | 宮内多吉 | 1908年 - 1913年 |
八代村長 | 落合訓彌 | 1913年 - 1918年 |
九代村長 | 小牧良光 | 1918年 - 1927年 |
十代村長 | 小原助市 | 1927年 - 1929年 |
人口
[編集]以下の人口遷移表は『川内市史 下』の別表の記述に基づく。
- 凡例
人口(人) |
1882年 | 4,290 | |
1902年 | 4,836 | |
1912年 | 5,288 | |
1922年 | 6,109 | |
1926年 | 6,407 |
教育
[編集]- 長濱学園私立川内商業学校(現在の鹿児島県立川内商工高等学校)
- 平佐東尋常高等小学校(現在の薩摩川内市立平佐東小学校)
- 平佐西尋常高等小学校(現在の薩摩川内市立平佐西小学校)
交通
[編集]鉄道
[編集]河川
[編集]- 川内川
- 樋脇川
- 平佐川