本多熊太郎
本多 熊太郎(ほんだ くまたろう、明治7年(1874年)12月8日 - 昭和23年(1948年)12月18日)は、明治・大正・昭和の外交官、太平洋戦争時の中華民国大使、東條内閣の外交顧問。戦後はA級戦犯容疑者として逮捕された。
来歴・人物
[編集]和歌山県那賀郡で本多宇兵衛の子として生まれる。 東京法学院(中央大学)法科在学中の1894年(明治27年)5月に外務省留学生試験合格、翌年の1895年(明治28年)8月に外務省書記生試験(専門職)に合格し、外務省入省。1901年(明治34年)、小村寿太郎外相の秘書官となり、日露戦争のポーツマス講和会議に随行。後藤新平の満鉄総裁当時、北京公使館の二等書記官となった。1918年(大正7年)、スイス公使、大正13年(1924年)からドイツ大使を務めて退任。ドイツ大使を務める間、欧州統合論の主導者クーデンホーフ=カレルギー伯と親交を結び、伯の論評を読んで報告を上げてきた外交官鹿島守之助(当時は永富守之助。のち鹿島建設会長、戦後自民党議員)に伯を紹介した[1]。
1940年(昭和15年)、松岡洋右外相に起用されて汪兆銘政権下の南京に中国大使として赴任。 赴任中に日華基本条約、日満華共同宣言の締結が行われた。1941年(昭和16年)7月、第3次近衛内閣成立時に豊田貞次郎外相に辞意を伝えたが、豊田に懇望されて留任した。しかし体調が悪化し、同年11月、病気の悪化を理由に帰国。同年12月19日、駐華大使を被免。後任は駐英大使であった重光葵が就任した[2]。 1944年(昭和19年)に東條内閣の外交顧問に就任。
1945年(昭和20年)12月2日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し、本多を逮捕するよう命令(第三次逮捕者59名中の1人)[3]。A級戦犯容疑者として巣鴨刑務所に収監されたが、その後、病気により釈放、不起訴となった。
家族・親族
[編集]- 充一
- 英二
- 静子(松村光麿妻)
- 那都子(菊池辰雄妻)
- 萬里子(山田兼雄妻)
栄典
[編集]- 1902年(明治35年)3月5日 - 勲六等単光旭日章[4]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 明治三十七八年従軍記章[5]
- 1918年(大正7年)7月31日 - 従四位[6]
- 1926年(大正15年)
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[9]
- 外国勲章佩用允許
文献
[編集]- 『本多熊太郎関係文書』 高橋勝浩編、国書刊行会、2018年
脚注
[編集]- ^ 平川 2011, p. 5; 戸澤 『RCK通信』
- ^ 駐華大使に重光葵を起用『朝日新聞』昭和14年12月20日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p52 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 梨本宮・平沼・平田ら五十九人に逮捕命令『毎日新聞』昭和20年12月4日東京版(『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p341)
- ^ 『官報』第5598号「叙任及辞令」1902年3月6日。
- ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
- ^ 『官報』第1799号「叙任及辞令」1918年8月1日。
- ^ 『官報』第4113号「叙任及辞令」1926年5月12日。
- ^ 『官報』第4134号「叙任及辞令」1926年6月5日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ a b 『官報』第3977号「叙任及辞令」1925年11月26日。
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- 平川, 均 (2011年2月15日), “鹿島守之助とパン・アジア論への一試論”, SGRAレポート 58 (公益財団法人 渥美国際交流財団 関口グローバル研究会), オリジナルの2014年11月29日時点におけるアーカイブ。
- 戸澤, 英典, クーデンホーフ・カレルギーと鹿島守之助 (1), 東北大学大学院・法学研究科 公共政策大学院/法学部 教授 戸澤英典 研究室 『RCK通信』 2014年12月18日閲覧。