松平乗保
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 寛延元年(1748年)[1] |
死没 | 文政9年6月26日(1826年7月30日) |
改名 | 慥五郎(幼名)→乗保 |
戒名 | 尚通院殿純定篤敬大居士 |
墓所 | 東京都台東区上野公園の寛永寺春性院 |
官位 | 従五位下・河内守、能登守、従四位下・侍従 |
幕府 | 江戸幕府奏者番、若年寄、大坂城代、西丸老中 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 美濃岩村藩主 |
氏族 | 朽木氏→大給松平家 |
父母 | 父:朽木玄綱、母:華嶽院(浅田氏、側室)・ 養父:松平乗薀 |
兄弟 | 朽木舖綱、乗純、牧野成音、乗保、 浄鏡院、内藤長好正室、柴田勝満正室、松平忠孝正室、朽木道綱正室ら 養兄弟:朽木綱貞、乗国、乗遠、 林述斎、寿姫 |
妻 | 正室:松平康福娘 側室:池田氏 |
子 | 乗友、乗美[2]、乗時 |
松平 乗保(まつだいら のりやす)は、江戸時代中期から後期にかけての大名・老中。美濃国岩村藩主。乗政流大給松平家5代。官位は従四位下・侍従。
略歴
[編集]寛延元年(1748年)[1]、丹波国福知山藩5代藩主・朽木玄綱の八男として生まれた。
岩村藩主・松平乗薀の長男の乗国、次男の乗遠がいずれも早世し、三男の熊蔵(後の林述斎)は幼くかつ病弱であったため、また朽木玄綱が初代藩主・乗紀の息子であったことから、明和7年12月(1771年)、乗薀の養子に迎えられた。
明和8年(1771年)3月、将軍徳川家治に御目見した。12月には従五位下・河内守に叙任された。
天明元年(1781年)4月、乗薀の隠居により家督を相続し、岩村藩主となった。
天明3年(1783年)能登守に改めた。
文化3年(1806年)10月、大坂城代に就任し、位階が従四位下に昇格した。
文化7年(1810年)6月、西丸老中に就任し、大坂城から江戸城に移り、侍従となった。
参考文献
[編集]- 『岩村町史』「十五 岩村藩主時代 3 松平氏」 p193~p227 岩村町史刊行委員会 1961年
- 『恵那郡史』「第七篇 第二十八章 諸藩分治 其一 岩村藩 松平氏七代」 p218~p230 恵那郡教育会 大正15年(1926年)