青山宗俊
青山宗俊 | |
時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 慶長9年11月6日(1604年12月26日) |
死没 | 延宝7年2月15日(1679年3月26日) |
改名 | 伊勢千代(幼名)、光俊(初名)、宗俊 |
別名 | 藤五郎 |
戒名 | 幡竜院殿義辺寸忠大居士 |
墓所 | 京都府京都市北区紫野大徳寺町の大徳寺芳春院 |
官位 | 従五位下、従四位下、因幡守 |
幕府 | 江戸幕府 書院番頭、大番頭、大坂城代 |
主君 | 徳川家光、家綱 |
藩 | 信濃小諸藩主、摂津国・河内国内、遠江浜松藩主 |
氏族 | 青山氏 |
父母 | 青山忠俊[1]、大久保忠佐娘 |
兄弟 | 宗俊、宗祐、忠栄、正俊、滝川正利正室、寿松院、川口正信室、中根正次室 |
妻 | 石橋氏、大河原氏 |
子 | 忠丸、忠雄、忠重、貞俊、忠貴、 永井尚長正室、本多忠隆室 |
青山 宗俊(あおやま むねとし)は、江戸時代前期の旗本、大名。信濃国小諸藩主、大坂城代、遠江国浜松藩初代藩主。官位は従四位下・因幡守。青山家宗家11代。
生涯
[編集]慶長9年(1604年)、徳川家譜代の重臣・青山忠俊[2]の長男として誕生した。元和7年(1621年)、従五位下・因幡守に叙位・任官する。元和9年(1623年)に父が3代将軍・徳川家光の勘気を受けて蟄居になった際、父と共に相模国高座郡溝郷に蟄居した。
寛永11年(1634年)、家光から許されて再出仕する。寛永15年(1638年)12月1日に書院番頭に任じられ、武蔵・相模国内で3,000石を与えられて旗本となる。寛永21年(1644年)5月23日に大番頭に任じられる。正保5年(1648年)閏1月19日、信濃小諸において2万7,000石を加増され、合計3万石の大名となり、信濃小諸藩主となる[1]。また本領とは別に信濃国内に幕府領1万5,000石を預かる。小諸藩では御影用水・新田の開削という大規模な工事に着手し、民衆も苦しんだが田地は増大して増産効果をもたらした[3]。
寛文2年(1662年)3月29日、大坂城代に任じられたため、所領を2万石加増されて合計5万石の大名となった上で、所領を摂津国・河内国・和泉国・遠江・相模・武蔵などに移され、移封となる。寛文9年(1669年)12月26日、従四位下に昇叙する。延宝6年(1678年)に大坂城代を辞職し、8月18日に遠江浜松に移封となる。
延宝7年(1679年)2月15日、死去。享年76。跡を次男の忠雄が継いだ。
系譜
[編集]- 父:青山忠俊(1578年 - 1643年)
- 母:大久保忠佐の娘
- 側室:石橋氏
- 次男:青山忠雄(1651年 - 1685年)
- 側室:大河原氏
- 三男:青山忠重(1654年 - 1722年)
- 生母不明の子女
- 養子
脚注
[編集]出典
[編集]- 塩川友衛『小諸藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2007年8月。
- 「寛政重修諸家譜 巻第727」