樋口喜吉
樋口 喜吉 | |
---|---|
生誕 | 1865年5月9日 |
死没 | 1934年7月12日(69歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1889年 - 1915年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
除隊後 | 稚松会副会長 会社経営 |
樋口 喜吉(ひぐち きよし、1865年5月9日(慶応元年4月15日) - 1934年(昭和9年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。予備役編入後、光学関係の研究に従事し、特許権や実用新案権を取得した。
生涯
[編集]- 略歴
幕末の若松城郭内に生まれる。戊辰戦争後に再建された日新館の助教となり、陸軍教導団を経て陸軍士官学校入校。1889年(明治22年)に卒業した(旧11期)。同期生に奈良武次、石光真清がいる。陸軍歩兵少尉に任官し、歩兵第16連隊付となる。
日清戦争に出征後、歩兵第30連隊付大尉。1899年(明治32年)陸軍大学校に入校。樋口は陸士5期から7期を主体とした後輩たちと共に学び、1902年(明治35年)に卒業(16期)。歩兵第5連隊付となり日露戦争開戦を迎え、同連隊第3大隊長として出征した。第5連隊は第8師団に属し、黒溝台会戦に参戦。戦後功三級に叙せられた[1]。
その後は歩兵第23連隊長、第11師団参謀長を経て、1915年(大正4年)3月、少将へ昇進し予備役編入となった。同郷の後進育成組織・稚松会の初代副会長を務めている。
- 黒溝台会戦
1905年(明治38年)1月25日、第3大隊は種田支隊の救援に赴き、ロシア軍に奪取されていた頭泡を奪還[2]。1月28日には左翼隊として歩兵第31連隊と共同で五家子の守備にあたり、ロシア軍に300メートルまで接近されたが撃退に成功している[3]。第3大隊にたいしては師団長・立見尚文から感状が授与された。
- 特許[1]
- 測距望遠鏡 1916年9月
- 集光鏡 1918年6月
- 顕微鏡同軸式微動装置 1920年4月
- プリズム眼鏡 1920年11月
- 縦横四線式微動装置 1922年12月
- 内空ノ翼車ト船端ノ導壁トニ依ル船舶推進装置 1927年
- 実用新案[1]
- 顕微鏡微動装置 1918年2月
- 顕微鏡簡保持器 1918年2月
- 顕微鏡輝照装置 1922年2月
感状
[編集]歩兵第五連隊第三大隊
右は三十八年一月二十五日、敵の大兵黒溝台に来襲するに當り、同地守備隊種田支隊を赴援するの目的を以て急進し、一旦敵手に委したる頭泡を奪還し、該地に於て六倍以上の敵を抑留し、敵の黒溝台に向てする攻撃力を減殺せしめ、支隊の危急を緩めたる功績顕著なりとす。仍て感状を付与す。
明治三十八年二月二十日 第八師団長 男爵 立見尚文
稚松会会報第十九号より引用(適宜句読点を補った)
栄典・授章・授賞
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 小島一男『会津人物事典 (武人編)』歴史春秋社
- 児島襄『日露戦争』(5巻)文春文庫
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』 芙蓉書房出版
- 福川秀樹『日本陸海軍人名辞典』芙蓉書房出版
- 福島県立会津高等学校『創立70周年記念誌』