奈良武次

奈良 武次
オートクローム技法により撮影された奈良武次の肖像写真(1919年)
生誕 1868年4月28日
日本の旗 日本 下野国都賀郡上南摩村(現・栃木県鹿沼市
死没 (1962-12-21) 1962年12月21日(94歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1889 - 1933
最終階級 陸軍大将
除隊後 大日本武徳会会長
枢密顧問官
軍人援護会会長
テンプレートを表示

奈良 武次(なら たけじ、慶応4年4月6日1868年4月28日) - 昭和37年(1962年12月21日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍大将男爵

経歴

[編集]

農民・奈良彦一郎の次男として下野国都賀郡上南摩村(現・栃木県鹿沼市)に生れる。進文学舎、陸軍有斐学校を経て、明治22年(1889年)7月、陸軍士官学校(旧11期)を卒業、砲兵少尉任官、近衛野砲兵連隊付となる。明治26年(1893年)11月、陸軍砲工学校高等科を優等で卒業。日清戦争では、臨時徒歩砲兵第2大隊副官として出征した。要塞砲兵監副官を経て、明治32年(1899年)12月、陸軍大学校(13期)を卒業した。参謀本部出仕(第3部)、陸軍省軍務局課員、由良要塞砲兵連隊大隊長、ドイツ駐在などを歴任。

日露戦争では、第3軍攻城砲兵司令部員として出征し、独立重砲兵旅団司令部員となった。日露戦後は軍務局課員(軍事課)、ドイツ駐在、軍務局砲兵課長、陸軍省上原勇作陸軍大臣)副官などを経て、大正3年(1914年)8月、陸軍少将に進級。奈良は反長州閥であり、宇都宮太郎の同志であった。支那駐屯軍司令官、青島守備軍参謀長軍務局長を歴任。大正7年(1918年)7月、陸軍中将となり、第一次世界大戦講和会議に陸軍委員として派遣された。さらに、東宮武官侍従武官、東宮武官長、侍従武官長を歴任。大正13年(1924年)8月、陸軍大将となり、昭和8年(1933年)4月、男爵の位を叙爵し華族となり後備役に編入。1939年(昭和14年)4月1日に退役した[1]

侍従武官長時代

[編集]

満洲事変後、国際連盟の中で未だ満州に関する処理で話し合いが続けられている最中にもかかわらず関東軍が中国と旧満州の境に兵を進める熱河作戦について、昭和天皇は国際連盟の反応を懸念してこれを中止したいと考え「統帥権最高命令によって作戦発動を中止せしめ得ざるや」と作戦の中止を奈良に打診した。これに対し奈良は「それは閑院宮・陸軍参謀総長がいらしてからに」とこれを受け流した。しかし昭和天皇は尚、諦めず「さっき聞いたことについてはどうだ」と側近に書かせた手紙を奈良に送ったが、奈良は参内せず「天皇のご命令をもって作戦を中止しようとすれば紛擾を惹起し政変の原因になるかもしれず」と手紙で返答している。こうして奈良は熱河作戦を天皇が強権を以って止めれば陸軍によって首相が殺され五・一五事件と同じような事態が起こる可能性を示唆して昭和天皇を脅迫し、統帥最高命令による作戦中止命令の発動を阻止することに成功した[2]

奈良はその以前からも、関東軍の独断専行を懸念しこれを制限したいという昭和天皇の意向を拒絶したり、上海からの陸軍撤退の下問を受け流す[2]等、世論の陸軍支持の流れを重視し、天皇の国際協調・穏健路線を否定・非難する立場から度々天皇の打診を拒否して陸軍および陸軍参謀本部の判断と行動に関する昭和天皇の干渉を遮った。

侍従武官長勇退の際には後任に満州事変勃発時の関東軍最高司令官であった本庄繁を推薦している。昭和天皇は本庄がかつて「満州事変は関東軍による謀略と聞くがどうか?」との自分の質問に対して「断じて軍の謀略ではありません」と答えた[3]ことに根ざした不信感から本庄の侍従武官長就任を何度も拒否したが、奈良は天皇の意向を無視して本庄を着任させている。

退役後は大日本武徳会会長、枢密顧問官、軍人援護会会長[4]を歴任し、昭和21年(1946年)8月、公職追放となった[5]。昭和27年(1952年)、追放解除[6]。昭和37年(1962年)、94歳で死去。極東国際軍事裁判では特に起訴されていない。

栄典

[編集]

位階

[編集]

勲章等

[編集]

外国勲章佩用允許

[編集]

親族

[編集]

著作

[編集]
  • 『侍従武官長奈良武次日記・回顧録』全4巻、柏書房、2000年、新版2012年
  • 『陸軍大将奈良武次日記 第一次世界大戦と日本陸軍』上・下。大正元年~大正九年の日記
黒沢文貴ほか全5名編、原書房「明治百年史叢書」、2020-2021年

評伝

[編集]
  • 波多野勝『奈良武次とその時代』芙蓉書房出版、2015年

登場する作品

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ 『官報』第3714号、昭和14年5月26日。
  2. ^ a b 「奈良武次 日記・回顧録」
  3. ^ 片倉 衷 「戦陣随録」
  4. ^ 総裁に朝香宮、会長に奈良武次大将『東京日日新聞』(昭和13年11月5日)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p128 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  5. ^ 公職追放の該当事項は「正規陸軍将校」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、426頁。NDLJP:1276156 
  6. ^ 『毎日新聞』1952年2月14日夕刊一面。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax 奈良武次」 アジア歴史資料センター Ref.A06051182000 
  8. ^ 『官報』第2576号「叙任及辞令」1892年2月4日。
  9. ^ 『官報』第2858号「敍任及辞令」1893年1月11日。
  10. ^ 『官報』第3862号「敍任及辞令」1896年5月16日。
  11. ^ 『官報』第5451号「叙任及辞令」1901年9月2日。
  12. ^ 『官報』第6531号「叙任及辞令」1905年4月12日。
  13. ^ 『官報』第8073号「叙任及辞令」1910年5月23日。
  14. ^ 『官報』第667号「叙任及辞令」1914年10月21日。
  15. ^ 『官報』第1825号「叙任及辞令」1918年9月2日。
  16. ^ 『官報』第3110号「叙任及辞令」1922年12月12日。
  17. ^ 『官報』第3745号「叙任及辞令」1925年2月18日。
  18. ^ 『官報』第373号「叙任及辞令」1928年3月29日。
  19. ^ 『官報』第1827号「叙任及辞令」1933年2月3日。
  20. ^ 『官報』第5245号「叙任及辞令」1944年7月10日。
  21. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月11日。
  22. ^ 『官報』第1128号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。
  23. ^ 『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。
  24. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  25. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  26. ^ 『官報』第3457号「叙任及辞令」1938年7月13日。

参考文献

[編集]
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

外部リンク

[編集]
軍職
先代
佐藤鋼次郎
支那駐屯軍司令官
第2代:1914年6月8日 - 1915年7月5日
次代
斎藤季治郎
先代
小川賢之助
東宮武官長
第7代:1920年7月16日 - 1926年12月25日
次代
廃止
先代
内山小二郎
侍従武官長
第4代:1926年12月25日 - 1933年4月6日
次代
本庄繁
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
奈良(武次)家初代
1933年 - 1947年
次代
華族制度廃止